067 師匠シリーズ「ビデオ 後編1」
師匠の部屋を出てから、自転車に乗って街なかをしばらくうろうろしていた。
考えがまとまらない。情報が多すぎる。
官報の無機質な記事の中で、無数の人々の様々な死を追体験した俺は、人間の死とはなにか、人間の尊厳とはなにか、勝手に浮かんでくるそんな問いの答えをぐるぐると考えていた。
結局、黒谷という師匠の知り合いから買い取ったあのビデオは、駅員たちの怪談じみた噂話の中にだけ存在していたはずの、奇怪な死者の姿を画面の端にとらえていたものだった。
そして、そのビデオは供養のために寺に持ち込まれた。
なにか変だ。
元駅員の二人から話を聞き、官報まで調べて俺たちはその死者の正体、いや、そのしっぽにたどり着いた。
だから、あのビデオが恐ろしい代物だということを知っている。
けれど、ビデオを撮影した人間にとってはどうだ。
ただ、素人の映像劇の撮影中に偶然撮れた、鉄道事故の瞬間に過ぎない。
確かに気持ちの良いものではないが、そこまで怯えるべきものだろうか。
俺たちは、このビデオがヤバイと聞かされて、積極的に情報を集めたからこそ、サトウイチロウにたどり着いたのだ。
ただの鉄道事故の映像から、同じように情報を辿れるものだろうか。
なにか俺の知らない、別のファクターがあるのかも知れない。
気がつくと駅前まで来ていた。
時計を見る。午後四時半過ぎ。財布を見る。一万円札がチラッと覗く。
「行ってみるか」
あのビデオの舞台である前原駅は多少遠いが、今日中に行って帰れる距離にはある。
さっき師匠の言葉にビビらされた後だというのに、我ながら現金なものだ。
好奇心が恐怖心にもう勝ってしまっている。
というよりも、師匠の話し方の問題なのだという気がする。
あの人は必要以上に俺を怖がらせようとする傾向がある。それに嵌ってしまう俺も俺だが。
キオスクで弁当を買って、ちょうど出発するところだった快速に乗る。
帰宅ラッシュにはまだ少し早い時間だったので、四人掛けの席の奥に座れた。
黙々と弁当をかきこむ。
考えたら、朝からなにも食べていなかった。
ろくに自炊もしてないから、食べることに関しては本当に適当だ。
それから、スーツ姿の人たちや学生服の群れで車内は込み始め、俺はざわめきの中で、考えごとをしながら心地よい振動に身を任せていた。
一度乗り継ぎをしてから、結局特急料金を払わずに目的地にたどり着いた。
前原駅だ。
本当に田舎じみた周辺の駅よりは多少ましだが、それでも小さな駅だという印象は否めない。
伸びをしてから、一緒に降りた数人の客と改札へ向かう陸橋の階段を上る。
日が落ちかけて、駅の構内は薄暗くなってきている。
改札の前に立ち、両手の人差し指と親指とでフレームを作って移動することしばし。
見覚えのあるアングルを発見する。
ここだ。あのビデオはここから撮影していたのだ。
そう思うと、何故だか分からないけれど身震いするものがある。
ホーム側にちょっと奥まったところだ。この角度では線路は見えない。
画面の端に映っていた、『高遠駅』の矢印も確認する。あの特急列車が向かった駅だ。
そういえば、サトウイチロウにまつわるこの前原駅の事件の一つ前は、高遠駅で発生している。
特急列車の通過する駅の順番と、事件はなにか関係があるのだろうか。
頭の中でうろ覚えの地図を再生するが、事件の発生順と駅の並びには法則性はないようだ。バラバラに起きている。
バラバラ……
その単語を思い浮かべた瞬間、視界の隅、向かいのホームに、灰色のコートが見えた気がして思わずハッとする。
気のせいだったようだ。そんなものはどこにもない。そもそも今は夏なのだ。
全身を覆うようなコートなど、まともな人間が着ているはずはない。
複雑な気持ちでベンチに腰掛ける。俺はなにか起こって欲しいのだろうか。
だいたい、ここにはなにをしに来たのか。
うつむき加減の目の前を、様々な形の靴が通り過ぎる。家に帰るのだろうか。誰も彼も足早に見える。
ふと、以前師匠とやったゲームを思い出す。
雑踏の中で、無数の通行人の足だけを見る役と、顔だけを見る役を決めて、それぞれ別々に通った人を数えるのだ。
通路のようなある程度狭い場所でやっても、不思議なことに計数した数字が異なることがある。
単なる数え間違いのはずなのに、なんだか薄気味の悪い思いをしたものだ。
それから俺は、ベンチから腰を上げて駅の中を歩き回り、勇気を出して、駅員にサトウイチロウの噂のことを聞いたりした。
けれど、その配属されて一年目だという若い駅員は、その噂を知らなかった。
それどころか、五年前の事故のことも知らなかった。
今いる先輩も、ここ三,四年でやってきた人ばかりだという。
「当時の駅員が、今どこにいるか知りませんか」と聞いてみたが、「さあ」と、めんどくさそうな答えが返ってくるだけだった。
その事故の時、死体を片付けた人の話を聞けば、なにか分かるかも知れないと思ったのだが、簡単にはいかないようだ。
『サトウイチロウを片付けたら呪われる』
吉田さんはその死体処理をした数日後に、自家用車の事故で指を三本失う大怪我を負った。
だが、「自分はまだいい」と語る。
なぜなら、一緒に肉片を集めた先輩の駅員は、その一ヵ月後に自宅の鴨居で首を吊って自殺したのだという。
全然そんなそぶりも見せなかったのにと、関係者はみんな首を捻ったけれど、吉田さんだけは思わず念仏を唱えた。
無関係なはずはない。そう思ったのだという。
「片付けたら、呪われる」
ホームの隅のベンチに腰掛け、サイダーの蓋を開けながら口にしてみる。
頭の隅にある引っ掛かりの一つがそこだった。
片付けたら呪われる。あのビデオが寺に持ち込まれた理由がそこにあるのか。
いや、違う。
何故なら、ビデオを撮影していた二人は、死体に触れられなかったはずなのだ。
カメラを持って線路に近づこうとした時点で、駅員に制止されている。
そこから制止を振り切って線路に降り、死体を片付けるなんてことが出来たとは思えないし、そんなことをする理由もない。
では、なぜビデオは寺に持ち込まれることになったのか。
考える。
死体を片付けていないのに、呪いを受けたというのか。なぜ。
ビデオに撮影したからか。それだけのことで?
いや、待て。何か忘れている。
ビデオでは、コートの人物が線路に落ちるまで、誰もそちらを見ていない。
まるで、そこにいても目に入らないかのように。
そして、特急列車が通り過ぎて轢死体が現れて、初めて騒ぎになったのだ。
そうだ。吉田さんも言った。誰も死ぬ瞬間を見ていないと。あれは、最初から最後まで死者だと。
だから俺も思ったのだ。誰も見ていないはずの死者が、立って動いている姿を自分たちは見た。
それは、とても恐ろしいことではないかと。
同じなのかも知れない。ビデオを撮影した二人も、その瞬間には気づいていない。
けれど後で気づいただろう。家に帰り、テープを再生した時に。
灰色のコートの人物が、ホームの端からふらりと線路に落ちる瞬間を。
ただそれだけのことで。見たという、ただそれだけのことで、彼らの身に何かあったのだとすると。
本人ではなく身内だとすると、年齢からして母親と思われる女性が、寺に供養を頼みに来たのだとすると。
まるで、忌まわしい遺品を処理するようではないか。
見たという、ただそれだけのことで。
そんなことを考えていると、ベンチに触れている腰のあたりにじっとりと汗をかいてきた。
俺も見た。
風が止んでいる。
どこからか、ひぐらしの鳴く声が聞こえる。
すっかり暗くなり、人影もまばらな駅の構内に、その声だけが通り抜けていった。
それから俺は、やけに疲れた足を引きずるように帰りの電車に乗った。
現地に来たものの、ほとんど収穫と言えるものはなかった。
動き出した電車のガタガタと揺れる窓を見ながら、頬杖をついて物思いに沈む。
何時に着くだろう。遅くなりそうだ。明日が土曜日でよかった。
もっとも、平日でも関係なしに、バイトや遊びにうつつを抜かす学生なのであったが。
よほど疲れていたのか、気がつくとウトウトしていた。車内は閑散として客の姿もほとんど見えない。
頭を振る。胸騒ぎのようなものを感じた。
そして、今どの辺だろうかと、窓の外に目をやった瞬間だ。
頭の中をゆるやかな衝撃が走り抜けた。その影響はじわじわと心臓付近へ降りてくる。ドクドクと脈打ち始める。
夜景だ。どこかで見たことのある暗闇の中、視界の左右に伸びる光の粒。
窓の外に流れるその光景に目を奪われていた。
あれは北村さんと話した日。寝る前に電気を消した時に見た幻。瞼の裏に映った、そこに見えるはずのない夜景。
全く同じ構図だ。いや、あやふやな記憶が、今この瞬間に修正されていくのか?
分からない。立ち上がりそうになる。
067 師匠シリーズ「ビデオ 後編2」
デジャヴなのだろうか。違う。北村さんと話した日、バイトがあったからあれは水曜日。
その時、夜景を見たのは確かだ。記憶の混濁ではない。なんなんだ。
俺は混乱していた。
水曜日ということは、一昨日だ。今見ている光景を二日前に、まるで予知したかのように見ていたというのか。
あの夜。俺の瞼の裏には、まるで混線したように、二日後の俺の視界が映し出されていた?
混乱する頭を抱えたまま電車は進む。やがて夜景も見えなくなった。名前も知らない街の光が。
漠然とした不安を抱えたまま、ホームタウンの駅に着いた時には十時近くになっていた。
駅ビルから出ると、駐輪場から自転車を出して来て、のろのろとまたがる。
足に力を入れると、夜の街の景色がゆっくりと流れていく。
まだ電車に揺られているようなふわふわした感じ。
自転車に乗ったまま半分夢うつつだった気分が吹き飛んだのは、深夜まで営業しているスーパーの前を通り過ぎてしばらくしてからだ。
まばたきに合わせるように、目の前に光の軌跡が現れた。暗い歩道を自転車で進んでいる時だ。
なにもないはずの目の前の空間に、さっき通ったばかりのスーパーのケバケバしい明かりが、その光の跡が浮かんでいるのだ。
まただ。瞼の裏に浮かぶ光の幻。今度はたった数分前に通ったスーパーが。
なんだこれは。そんなに疲れているのか。
困惑しながら自転車をこいでいると、また別の光が見えた。闇の中にぼんやりと浮かぶ四角い光。
薬局だ。スーパーから少し先に行った所にある薬局の看板。もちろん、とっくに通り過ぎている。
頭がくらくらする。
なんだこれは。次から次へ。まるで追いかけられているような気持ちになってくる。
追いかけられて?
その言葉がザクリと身体のどこかに刺さった。
誰から?
俺を追いかける理由のあるものから。
脳みそが勝手にその姿を想像しようとしている。灰色のコート。帽子。マスク。手袋。
俺はさっき電車の中で夜景を見た時、『混線』という言葉を思い浮かべた。
現在の視界が、過去の視界と混線したのだと。
だが、その『混線』は、過去の自分のものとは限らないのではないか。
いつか聞いた師匠の言葉が脳裏をよぎる。
『闇を覗く者は、等しく闇に覗かれることを畏れなくてはならない』
昭和期から繰り返される、幾度も蘇る轢死者の潰れた眼球が、虚ろな闇の中からこちらを見ているイメージ。
最初は夜のビルだった。ビデオを見た次の日、あれは火曜日のはず。そのビルに見覚えは無い。
次に見たのは水曜日の夜、夜景だ。それは前原駅からこちらへ向かう途中に存在していた。
その次は、木曜日の昼間見た軽四自動車。自動車が走るのは道路だ。鉄道ではない。
移動している。
もしあの幻視が別の誰かの視界との混線だとするなら、その誰かは明らかに移動している。
水曜日、電車に乗って夜景を見ながら移動していたそれは、どこで電車を降りた?そしてどこの街を彷徨っている?
ドキドキと心臓が鳴る。身体に悪そうな音だ。
思わず自転車に乗ったまま振り返る。追いかけて来るものの影はなにも見えない。
自然とペダルをこぐ足に力が入る。
ハッハッと、自分の息遣いが他人のもののように聞こえる。
木曜の夜はなにも見なかった。金曜、つまり今日の昼間も。
けれど、ついさっき俺は見てしまった。
自分が通りすぎたばかりのスーパーの光を。薬局の看板を。
それが、誰かの視界だとするならば……
『ついて来ている』
そう考えてしまった俺は、叫びそうになりながら全力疾走した。
こんな訳の分からないことが起こり始めたのは、明らかにあのビデオを見てからだ。
見てはいけないものが映ってしまったあのビデオを。
アパートが見えてきてもスピードを緩めない。ガシャーン、と駐輪場に自転車を突っ込んで、階段を駆け上がる。
自分の部屋の前に立ち、ポケットの鍵をもどかしく取り出すとすぐに中へ飛び込んだ。
内側からドアに鍵を掛け、ずるずるとその場に座り込む。
まばたきをするのが怖い。
なにかそこにあるはずのないものを、その光の跡を見てしまうのがどうしようもなく怖い。
深呼吸を何度か繰り返す。
今日までにあったことがフラッシュバックする。
深呼吸する。
もたもたと這うように流しに向かい、蛇口から流れる水に口をつけて飲む。
腹の中から疲れが押し寄せてくる感じ。
部屋の中に入り、明かりをつける。
何も変わったことはない。
散らかった室内。読みかけの漫画と小説の束。ゲーム機。脱ぎ散らかした靴下。食べたままのカップ麺。
テーブルに重ねられたレンタルビデオ。微かに膨らんだレンタルビデオ店のビニール製の袋。
目が留まった。
テーブルの上に乗せられた、レンタルビデオ店の名前が印字されているその青い袋。
その膨らみから、ビデオテープが一本だけ入っているのが分かる。
おかしい。火曜日に二本みた。くだらないSFとくだらないホラー。
そして水曜日には三本みた。アクションものばかり。
五本千円で一週間借りているビデオ。
では、あの袋に残っているのはなんだ?
息が荒くなる。視界が歪む。
手が伸びる。自分の手ではないみたいだ。
知りたくない。知りたくない。
そんな言葉が頭の内側で鳴る。けれど手が止まらない。
どぶんと、粘度の高い流体に手を突っ込むようだ。
指先まで意思が伝わるまで時間がかかるような。
生理的な嫌悪感がぞわぞわと皮膚の表面を這い回る。
袋のざらついた感触。指先がその中へ入っていく。プラスティックの角に触れる。掴み、ズルズルと取り出す。
その表面に書かれた文字を見た瞬間、停滞していたような時間が弾けとんだ。
思わず吹き出してしまう。ここでは言えないようなタイトルだ。借りたことをすっかり忘れていた。
いつもは旧作ばかり五本借りるのだが、衝動的にそういうビデオを新作料金で別に借りていたのだった。
今までの恐怖心もすべて消え去って、バカ笑いしてしまった。自分の間抜けさにだ。
だからチャイムが鳴った時も、まるでいつもの感じで気安く「はい」と返事をしながら、ドアに向かったのだ。
笑いを引きずったままで。
けれど、台所の前を通りドアの前に立とうとした瞬間に、その奇妙なものが目の前に見えて足が止まった。
まばたきの間に自分の姿が見えた。ドアの前にドッペルゲンガーが立っていた訳ではない。
そのもう一人の自分の姿の背景には、台所とその向こうの部屋とがある。
視点が反転している。大きな鏡の前に立ったような。けれどその鏡は丸く歪んでいる。
自分の姿も、台所も、端の方は歪んで潰れたようになっている。
丸い視界。今度は光の跡ではなく、視界そのものだ。
目を開けると、その反転した視界は消える。
そして、目の前のドアに釘付けになる。
正確には、そこに開いた小さな覗き穴、ドアスコープに。
何かが動いた気配。
一瞬、スコープの周囲の金具がキラリと光る。外の通路の蛍光灯に反射したのか。
そしてすぐに穴は暗くなる。
誰かいる。
あの丸い穴からこちらを見ている。
まばたきをする。
また自分が見える。
混線した視界があちらの見ているものを俺に見せたように、俺の見ているものをあちらにも見せていたのだろうか。
そして辿られた?
セミが鳴いている。甲高く。耳のすぐそばで。足に鉛が入ったように動かない。
ドアの向こうの気配が強くなる。
ドンドン、とノックが二度。
けれどそれは、変に潰れたような音だった。ドンドン、というよりもベタ、ベタ、とでもいうように。
顔が引きつる。上唇が痙攣する。想像してしまう。
コートの下は、はじめから、バラバラなのかも知れない。
肉片から、肉片へ。死体から、死体へ。
最初から、最後まで、死者のままで。
動けない。金縛りにでもかかったかのように。逃げなくてはならないと、頭のどこかでは分かっているのに。
鈍い音がして、ドアの足元に目が行く。
軽い振動。ドアの下のわずかな隙間から、ゴツゴツとなにかを押し込もうとしているような音。
指を想像する。
そして、やがてそれが、肉がひしゃげるような音に変わる。
(了)