065 師匠シリーズ「ビデオ 前編3」
今度はもう一つの別の輪郭は見えなかった。何度か目を瞬いたがおかしなものは見えない。
なんだったのだろう。あれは。
瞼の裏に輪郭が映るほど光を発する、もしくは反射するものなんて、天井にぶら下がっている電球以外ないというのに。
目を閉じた瞬間の頼りない記憶を呼び起こす。
ベッドに寝転ぶ前にそんなものを見ていたはずはない。なんだか鼓動が早くなってきた。
電球の横に無数の窓から光の漏れているビルを見ていたなんて。
息を深く吐き、その後、軽く笑うように最後の息が漏れる。
今日見たレンタルビデオにそんなビルが出てきただろうかと考えながら、疲れた目頭を押さえて電球の紐を手繰った。
次の日も大学の授業があった。一限目、二限目と真面目に出席したあと、昼食をとるために学食へ足を運んだ。
トレーを持って視線を巡らせると、いつもの指定席に師匠の姿を見つける。
「カレーですか」
向かいの席に腰掛けると、彼はスプーンを口に入れたままうっそりと頷く。
学食のカレーのLサイズは、300円でお釣りがくるという低料金にも関わらず、腹を空かせた学生の胃袋を、そこそこ満足させてくれるボリュームを誇っている。
もちろん味はともかくとしてだ。
「なにか分かりましたか」
俺の問いかけに、しばらく口をもぐもぐ動かしてから水を飲む。
「場所は、分かったよ」
「え?あのビデオの駅ですか」
「画面の端に、一瞬だけ次の停車駅が映っている。高遠駅だ。近隣の路線図を睨んでみたが、該当する駅名があった。間違いないだろう。その西隣の駅が、北河口駅、東隣が前原駅」
具体的な名前が出てきたが、ここでは駅名やそれに関連する名前は、仮名とした方が無難なようだ。
「ビデオの中では、次の停車駅の高遠駅が、左向きの矢印で示されている。例の電車が向かった方向だね。そしてビデオを見る限り、向かいのホームには、改札らしきものが見あたらない。恐らく、改札側から撮影していたんだ。北河口、前原、両方の駅に電話で確認してみたけど、どちらも改札は南側にあった。ということは、改札方向から向かって左側は、方角でいうと西ということになるんだから……」
「ビデオが撮影された駅は、東隣の前原駅ですね」
「そういうこと」と、師匠はもう一度スプーンをカレーの中に突っ込んだ。
前原駅か。よく知らない駅だ。県外なのに加え、特急や新幹線では止まらない駅のはずだ。
「他にはなにか分かりましたか」
師匠は口を動かしながら首を横に振った。
俺はついでに、昨日の晩にあった奇妙な体験を話して、意見を求めようかと考えたが、壁の時計をちらりと見てから、急にカレーを食べるピッチの上がった師匠の様子から、どうやら急ぎの用があるらしいと思い、控えることにした。
空になったコップを目の前に差し出され、アイコンタクトの必要もなく俺は水を汲みに席を立った。
その日の午後はバイトがあった。
駅の地下で洋菓子を売っている店があり、その店で焼く前の生地を作る作業場が、駅の近くにあった。俺の仕事場だ。
いつも行列が出来ている流行りの店であり、店員も若くて可愛い女の子が多かったので、なにか楽しいことがあるかも知れない、という淡い希望を抱いてバイト募集に応募してみたのだが、店舗スタッフは全員女性であり、男の俺は当然裏方の製造スタッフに回された。
冷静に考えれば分かることだったはずなのにと、俺は自分の軽率さを恨んだものだった。
ともあれ、そのころの俺は、週に二,三日のペースで小麦粉やバターをこねまわしていた。
その店はJRの関連会社が経営していて、正社員は二人だけ。あとはみんなバイトだった。
その正社員のうちの一人が北村さんといって、以前は駅員をしていたという経歴の持ち主だった。
その日も追加の生地の注文が多く入り、息をつく暇もなく働き続けた。
別の駅にも支店を開いたので、冷凍して運ぶための生地も余計に作らなくてはならず、大行列の店舗に負けず劣らず裏方もしんどかった。
ようやく店が閉まる時間になり、こちらも片付けと掃除を始める。仲間同士の笑い声が聞こえる穏やかな時間だ。
俺は隣で金属トレーを洗っている北村さんに話しかけた。
「駅員をやってるころに、ホームで自殺した人はいましたか」
「いたいたぁ。掃除もしたよぉ」
ずり落ちそうになる眼鏡を指で上げながら、北村さんは明るく喋る。
四十代も半ば過ぎだったはずだが、そのキャラクターでバイトたちからは愛されていた。
線路での人身事故は悲惨だ。
車輪に巻き込まれて原型をとどめない死体。轢断されて飛び散った肉片。
それらを片付けるのは、駅員の仕事なのである。
生存していたら、救急隊員が到着するまで担架に乗せるなどして保護するが、全身バラバラになっているような場合は、出来る限り体のパーツを集めて白い布で覆っておく。
そうした即死状態の場合は、あとで交通鑑識の現場検証があるまで、救急隊のほうで引き取ったりはしない。
そんな死体のそばにいるのは本当に気持ちが悪く、早いところ警察が来てくれるのを祈ったものだった。
……そんなことを、北村さんはやけに楽しそうに話す。
「特に停車駅だと減速しているから、スパッといかないのよ。巻き込まれてぐちゃぐちゃ。そんな時はこう、バケツいっぱいに肉をつまんでね、金バサミで入れていくわけよ。いや、あれはホントに、肉料理は無理だったぁ。にさんにち」
身振り手振りが大きすぎたのか、「喋る間に、手を動かす」と後ろから怒られた。
店長も頭が上がらないバイトのおばちゃんだ。
仕方なく、後片付けをすべて終えてから、控え室でもう一度北村さんに話しかける。
「前原駅?あんまりそっちは知らないなぁ」
俺は師匠と見たビデオの事故のことを説明した。大した期待をしたわけではない。
元駅員の立場からなにか知っていることがないかと、軽い気持ちで聞いたのだ。
すると北村さんは、なにかを思い出した顔をして肩をすくめると、そっと俺の耳に口を寄せてきた。
「サトウイチロウを片付けたら呪われる」
ひそひそとそんな言葉が耳に入る。俺は思わず体を硬くする。
「そんな噂があったのよ」
顔を離すと一転して明るい口調に戻り、眼鏡をずり上げる。
「あっちの方のエリアで、人身事故が多かったらしくてね。それも身元不明の。なんとかっていうらしいね。無縁仏じゃない、なんか難しい言い方。まあ、その無縁仏。仏さんの死体を片付けたら、なんか良くないことが起こるって噂が広がってたらしいよ」
噂と言っても、駅関係者の間でだけひっそりと口伝えされる、裏の話だ。
「サトウイチロウって、なんなんです」
「ほら、無縁仏だったらさ、名前も分かんないじゃない。だから、みんなサトウイチロウ」
業界用語というやつか。一般人には分からない隠語なわけだ。
映画界では、監督が撮影中に降板した場合など、アラン・スミシーという偽名がクレジットされることがあるそうだ。
ふとそれを思い出した。
「どんな呪いがあるんですか」
北村さんは腕組みをして必死で思い出そうとしていたが、最終的に二カッと笑うと「忘れた」と言った。
かわりに、その噂のことをよく知っている先輩が市内に住んでいるから、知りたければ話を聞きに行くとよい、と教えてくれた。
「もう引退してるから、多分話してくれると思うよ。日本酒を持っていけば」
俺はその住所を聞いてから、お礼を言った。
もうみんな帰ってしまって、仕事場は俺たちだけになってしまっていた。
腰を上げながら北村さんは言った。
「オバケの話が好きなんだねぇ。ここにも出るらしいよ。まえ、ここが食堂だった時に、バイトのおばちゃんたちが見たって」
俺はなにも感じなかったけれど、話を合わせて首をすくめた。
仕事場を出て北村さんと別れたあと、駅前で一人ラーメンを食べてから帰途に着く。
途中、百円ショップに寄って、バナナとベビースターを買い込んだ。
それらをお供に、寝転がってレンタルビデオを見るのが至福の時だった。
部屋に帰り着き、風呂に入ってからさっそくビデオをセット。
もうテコでも動かないぞ、という気持ちが沸いてくる。
そのころにはすでに、明日の一限目が始まる時間に起きられるように、などという殊勝なことはあまり考えなくなっていた。
結局、残りの三本とも見終わったときには、夜中の三時を回っていた。
伸びをしてから目覚ましを手に持ち、何時にセットしようか考えてから、やっぱりめんどくさくなり、運命に身を任せることにしてベッドに向かう。
明かりを消す。
すると目の前に不思議な光が現れた。
いや、光の残滓か。
それは夜景だった。
極小の光の粒が薄く左右に伸びている。まるで、離れた場所から街を見ているような……
すぐに目を開ける。光の幻は消え去る。昨日とまるで同じだ。もう一度目を閉じる。かすかに光の跡が見える。
ギュッと目を瞑ると、一瞬その輪郭が強く浮き出る。
けれど、それもやがて消える。
俺は闇の中で息を殺しながら考える。夜景なんて直前には見ていない。
ビデオを見終わって、すぐにテレビも消した。
もちろん最後に見ていたビデオにも、そんなシーンは出ていなかった。
一本目のビデオに一瞬だけ夜景が映っていたような気がするが、もっと遠景だったし、なにより、六時間も前に見たシーンが、ずっと瞼に焼き付いていたなんてことがあるとは思えない。
なにか嫌なことが起こりそうな予感がする。
師匠の部屋であのビデオを見てからだ。これは偶然なのか。
『あのビデオ、やばいぜ』
呪いのビデオ?ビデオの呪い?
記憶の影に、もう一度夜景の幻視を覗く。
離れた場所から見た街の光。それは、いつか見た夜の中を走る、電車の窓からの光景であるような気がした。
『サトウイチロウを片付けたら呪われる』
呪われる。呪われる?
なんだろう。訳も分からず、ただ恐怖心だけが強くなってくる。
夜は駄目だ。今だけはなにも起こらないで欲しい。
ベッドの上で身体を縮めて、俺は周囲の気配に耳をそばだて続けた。
066 師匠シリーズ「ビデオ 中編1」
次の日、昼過ぎに目覚めた俺は、師匠の家に電話をした。
十回ほどコール音を聞いたあと受話器を置く。
続けて携帯に掛けるが、電源が切れているか、電波が届かない場所にいるらしいことしか分からなかった。
仕方なく、昨日北村さんに聞いた、元駅員という先輩の家を訪ねてみることにした。
授業に出るという選択肢などとっくに吹っ飛んでしまっている。
財布の中を確かめて、買って持っていく日本酒の銘柄を決める。
散財だ。ビデオが何本借りられると思ってるんだ。
家を出て自転車に乗る。
陽射しが眩しい。ここ数日涼しかったのに、今日はやけに暑い。今年もまた夏が来るらしい。
道路沿いをこぎ続けて、ようやくその住所にたどり着く。住宅街の中のごくありふれた民家だ。
チャイムを鳴らし、用件を告げる。
吉田さんというその六十代の男性は、日本酒を掲げて北村さんの紹介だと告げた途端に玄関の奥へ顔を突っ込み、「かあさん、お客だ。お客。お茶を出しなさい」と怒鳴った。
そして家の中に招き入れられる。
一体、北村さんの名前と日本酒、どっちが利いたのか分からなかったが、話し好きであることは間違いないようだった。
客間の座椅子に腰掛け、勧められるままに煎餅に手を伸ばしながら、北村さんと同僚だった時代の昔話をしばし拝聴する。
本題を切り出す前の脇道だったので、適当に相槌を打っていたのだが、話術のせいなのか、これが意外と面白く、いつの間にか聞き入ってしまっていた。
始発の直前に寝坊して、時間との戦いの中そのピンチを切り抜けた話など、思わず手に汗握ってしまったほどだ。
やがて「喉が渇いた」と言い出した吉田さんは、テーブルの上の日本酒をじっとりと見つめる。
どうぞどうぞと手を広げて勧めると、「それじゃ遠慮なく」と、棚から持ってきたコップを脇に置き、栓を開けようとした。
不器用な手つきでなかなか開けられないのを見て、こちらでやってあげる。
「こう暑いと燗なんてしてられないねぇ」などと言いながら、吉田さんはぐいぐいコップを傾けはじめる。
俺はようやくここにきた理由を思い出し、目の前の禿げ上がった頭に赤みが差してくるのを見計らって、本題をそっと切り出した。
「サトウイチロウ?」
吉田さんは一瞬、怪訝そうな顔をしたあと、すぐに口をへの字に結ぶ。
「懐かしい名前だねぇ」
言葉とは裏腹に、表情はちっとも懐かしそうではない。恐れを呑んだような強張った顔だった。
そしてポツリポツリと、過去を掘り起こすように語りだす。
昔、吉田さんが駅員になって十年ほどしか経っていない、まだ若いころの話だ。
県外のある駅に転勤して間もないころ、その駅の助役から、茶飲み話の中で奇妙な噂を聞かされた。
曰く、「サトウイチロウの死体を片付けると呪われる」と。
ははぁ、サトウイチロウというのは、鉄道事故で死んだ身元不明者を表す隠語だなと、彼はあたりをつけた。
ところが、助役はかぶりを振るのである。
「ただの無縁マグロじゃねぇ。サトウイチロウは、そういう名前のマグロだ」と。
吉田さんは首を捻った。過去にそういう名前の轢死体が出たとして、それがどうだと言うんだろう。
エジプトのミイラの呪いのように、その死体を処理した人間に、なにかおかしなことが立て続いたのだろうか。
けれど、それにしても噂から受ける感じが変である。
まるでその死体を、これから片付けるようではないか。
助役はニタリと笑ってから、続けた。
「何度も死ぬのさぁ。サトウイチロウは。片付けても片付けても、おんなじ格好で駅に現れてさ、また飛び込みやがるのよ。何度も、何度も」
ゾクリとして、吉田さんは湯飲みを取り落とした。
そこまで聞いて、俺は思わず話を遮った。
「待って下さい。サトウイチロウって、そういう事故死した人の総称じゃないんですか」
吉田さんは話の腰を折られたことに鼻を鳴らしながら、「違うよ」と言った。
「同じ人間なんだよ。サトウイチロウって名前の。そいつが何度も死ぬんだ。列車に飛び込んで。オレたち駅員が片付けて、警察が来て、身元不明だって言って引き取って行って、 それで何年か経ったら、またフラッと別の駅に現れるんだよ。いや、誰も生きて動いている所を見ちゃいない。ただ、列車に轢かれているのを発見されるんだ」
北村さんの話と違う。同じ人間だって?そんなことがあるはずがない。
「じゃあ、死体を誰かが投げ込んでるんですか」
「違うね。生体反応ってのがあるんだろ。事故なのか自殺なのかも不明で、目撃者もいない変死体だから、解剖されるはずだ。死体損壊事件だったなんて、聞いたことがないね。少なくともオレのときは……」
そこで吉田さんは言葉を切った。
ドキドキしてくる。邪魔しないというジェスチャーをして、先を促した。
その噂を聞いてから五年ほど経ったころ、吉田さんはまた別の駅に転属になっていた。
雪がちらつく寒い日に、宿直室の掃除をしていると、ホームの方から急に悲鳴が上がった。
慌てて駆けつけると、先輩の駅員が線路に降りて何ごとか怒鳴っている。
見ると、線路の周囲に薄く積もった白い雪の上に、赤いものが飛び散っている。
マグロだとすぐに分かった。それもバラバラだ。
そういえば、直前に特急が通過している……
救急隊員が到着したが、その場に立っているだけでなにもしてくれない。
警察も第一陣として二人駆けつけてきたが、現場検証もそこそこに「死体を全部集めろ」と命令口調で言う。
仕方なく自分たちで散らばった肉片を掻き集めた。
血の匂いが鼻をついて堪らなくなり、手ぬぐいでマスクをして、その嫌な作業を続ける。
内臓も気持ちが悪いが、生半可に見慣れた人体の部品が雪の上に落ちているのを見るのは、吐き気のするおぞましさだった。
唇の切れ端や指の関節。紐のついた眼球は、血が抜けてひしゃげてしまっている。
駅員としても中堅どころに差し掛かり、何度か事故は経験しているが、こんなえげつない死体を扱うのは初めてだった。
ようやく一通り片付いて、悴んだ手をストーブにあてていると、そばで遺留品を確認していた警察官が財布を手に取って、それを開いたまま読み上げるように、ボソリと呟くのを聞いた。
「……さとう、いちろう」
その時。五年前に聞いた噂が脳裏に浮かび上がってきた。
『サトウイチロウの死体を片付けると呪われる』
今、マグロの財布に、その名前が書いてあったのだ。
サトウイチロウの死体を、片付けてしまった。
嫌な汗がだらだらと流れて、ストーブの火にも乾かず地面に落ちていった。
それから何日か経って、警察からの情報を受けた駅長から、事件のあらましを聞いた。
死体の身元は不明。
事故の瞬間を目撃した者はいなかったので、はっきりしたことは分からないが、事件性はないものと考えられているらしい。
線路上に散らばった所持品の中に財布があり、そこにサトウイチロウのネームがあることから、名前だけはそのようだと知れたに過ぎない。
サトウイチロウだ。何度も現れて、何度も死ぬ。誰も正体を知らない。
ごくり、と喉が鳴る音がした。
それが自分のものなのか、青い顔をして隣に立つ先輩のものなのか、分からなかった。
「偶然でしょう」
俺は軽い口調を装った。
吉田さんはコップを深く傾け、息をついた後で口を開いた。
「違うな。ありゃあ、亡霊だか妖怪だかのたぐいなんだよ。確かに足もあれば、手もある。目の前からひゅっと消えちまう訳でもねぇ。それでも、それがまともな人間だなんて、誰にも言えないんだ。なにせ、その足やら手やらがくっついた状態で、生きて動いているところを、誰も見てねぇからだ。オレは、たくさんの先輩から噂を聞いたよ。同じなんだ。サトウイチロウは、いろんな駅で死んでる。いつもバラバラになって。それも決まって身元不明だ。分かるのは名前だけ。そして、誰も死ぬ瞬間を見てねぇ。あれは、最初から最後まで死体なんだ」
ガチャリとドアが開いて、奥さんが水を持ってきた。
「おお、ちょっと飲み過ぎた」
吉田さんはそう言って水を受け取る。
奥さんはまだ中身の残っている日本酒のビンを、取り上げるように持って行ってしまった。
同一人物なのか、それともたまたま同じ名前の人が事故に遭っているのか。
いや、同一人物だなんてことはありえない。轢死体が蘇り、また別の駅に現れて、同じ轢死体になるなんてことは。
そもそも、これは噂なのだ。狭い業界内の、オカルトじみた噂話。
聞き手の俺にとってある程度信用に足るのは、吉田さん自信が経験した事故の話だけだ。
吉田さんがその噂を聞いたという先輩たちは、よくある『フレンド・オブ・フレンド』に過ぎない。
どこまで行っても発生源が分からない、『人づて』が作る奇妙な幻だ。
とりあえず俺はそう思うことにした。
水の入ったコップを持ったまま、もう片方の手で頭を押さえる吉田さんを見て、そろそろおいとましようと、腰を浮かしかけた時だった。
俺はふと、思いついたことを何気なく口にした。
「サトウイチロウを片付けた呪いは、どうなったんです?」
ぴくりと反応があり、吉田さんは赤い顔をしたまま口の中でぶつぶつと何ごとか呟く。
そして、俺の方に頭を押さえていた手を向けて、ぶらぶらと振って見せた。
その手には小指と薬指、そして中指の第一関節から先が無かった。
「さっきから見てるじゃねぇか」
嘲笑するでもなく、嘆くでもなく、ただひんやりとした力ない声だった。
帰り道。自転車を降りて手押ししながら、吉田さんから聞いた話のことを考えていた。
これは不思議だねでは済まない、呪いの絡んだ話なのだ。
吉田さんの後輩である北村さんには、まともに伝わっていなかったことは確かだ。
北村さんはサトウイチロウを、身元不明のマグロ、轢死体すべてを表す隠語だと思っていた。
しかし、それも仕方ないだろう。同じ人物が何度も死ぬなんて、想像もしていないだろうから。
そんなことを考えていると、一瞬目の前に何か大きな影が走ったような気がした。
キョロキョロと周囲を見る。
左右には住宅街の色とりどりの壁がずらっと並んでいて、平日の昼間にその道を通っているのは俺ぐらいのものだった。
なんだろう。
まばたきをした時、また違和感が走った。
目の前に白いセダンが停まっている。路肩に寄ってはいるけれど、通行の邪魔になっているのは間違いない。
太陽の光を反射してボディが眩しく輝いている。
もう一度、こんどはグッと目を閉じると、そのセダンが瞼の裏にくっきりと浮かび上がる。
光を反射する白い部分と、吸収する黒い部分のコントラストが強調される形で。
その少し左。道路の真ん中でなにもないはずの場所に、もう一台別の車の陰影が見えた。
ギュッと目を力を込めると、瞼の裏に映るものたちの姿が一瞬濃くなり、そしてやがて薄れていった。
目を開けると車は一台しかない。路肩の白いセダンだ。
けれどさっき瞼の裏には確かにもう一台の車、それも軽四のシルエットが浮かび上がっていた。
その場で足を止めてバチバチとまばたきを繰り返すが、もう白いセダンのものしか見えなかった。
(了)