062 師匠シリーズ「怪物 『結』上2」
まるで子どもがおもちゃの箱庭で遊んでいるような、現実離れした光景だった。
目に見えない巨大な手が空から降ってくるような錯覚を覚えて、私は思わず身体を仰け反らせる。
聞き集めた怪現象の中にこんなものがあったはずだ。でもこれは多分別件だろう。
全く誰もこの異変に気づいた様子はない。
誰かにここでこうしているのを見られたら、と思うと煩わしくなり、すぐに自転車を発進させた。
高野志穂の家はそこから5分と掛からなかった。
わりと新しい住宅が並んでいる一角の、青い屋根が印象的なこじんまりとした家だった。
家の前に自転車をとめて、私は腕時計を見る。
彼女はバレー部の練習に行くと言っていたので、まだ部活から帰っていない時間のはずだ。
深呼吸をしてから呼び鈴を押す。
インターフォンから『はあい』という声がして、暫し待つと玄関のドアが開いた。
高野志穂に良く似た小柄な女性が顔を覗かせる。母親らしい。
「あら。どなた」
そう言いながらドアを開け放ち、こちらに歩み寄ってくる。
内側にチェーンは……ない。
目線の動きを悟られないように素早く確認した後、私は出来る限りのよそいきの声を出した。
「志穂さんはいらっしゃいますか」
「あら、お友だち?珍しいわねぇ。でもゴメンなさい。まだ帰ってないのよ。……どうしましょう。ウチに上がって待ってくださる?散らかってるけど」
「いえ、いいんです。ちょっと近く来たので、寄っただけですから。また来ます」
そう言って私は頭を下げ、申し訳なさそうな母親にヘタクソな笑顔を向けて自転車に跨った。
「さようなら」
家を辞する挨拶として適当だったのか分からない。
ああいうときはなんと言うのだろう。お休みなさい、かな。でも少し時間帯が早いか。
そんなことを考えながら角を曲がるまで、背中に高野志穂の母親の視線を感じていた。
あの家は、違う。
チェーンのこともそうだが、エキドナの気配はない。
根拠のない自信だが、エキドナの母親であれば、たぶん一度顔を見れば分かるはずだ。
さあ、これからどうしよう。
地図をもう一度取り出して眺めると、ボールペンで丸をつけた部分は一見小さく見えるが、現実にその場に立ってみるとかなり広いことに気づく。
住宅街であり、そこに建っている家だけでも二桁ではきかない。
もう少し範囲を絞れないだろうかと考えて頭をフル回転させるが、いかんせんあまり性能が良くない。
やむを得ずカンでぶつかってみることにした。
それっぽい家(なにがそれっぽいのか基準が自分でも良く分からないが)の呼び鈴を鳴らして回った。
表札に出ている子どもの名前を使おうかと考えたが、本人が居た場合話がややこしくなると考え、「志穂さんはいますか?」と言って訪ねてみた。
すると、たいていの家では母親が出て来て、「志穂さんって、ひょっとして、高野さんの所のお嬢さんじゃないかしら」と言いながら、高野家の場所を口頭で教えてくれる。
そして私は、「家を間違えてしまって済みません」と言いながら立ち去る。
なんの問題もない。
スムーズ過ぎて、なんの引っ掛かりもないことが逆に問題だった。
ドアにチェーンのある家も中にはあったが、エキドナがいるような気配は全く感じなかった。
応対してくれる主婦も、ごくありふれた普通のおばさんばかりだ。
もっと突っ込んで、家の中でポルターガイスト現象が起こっていないかとか、家庭内で子どもとなにか問題が起きていないか、などと聞いた方が良いのだろうかと考えたが、どうしてもそれは出来そうになかった。
クラスメートならともかく、初対面の人間にそんな変なことを聞いて回るだけの、図太い神経を私は持ち合わせていないのだった。
日が暮れたころ。私は疲れ果てて、コンクリート塀に背中をもたれさせていた。
駄目だ。なんの手掛かりも得られなかった。
範囲が広すぎて、どこまで回っていいのかも分からない。
慣れないことをしているせいか、身体が少し熱っぽくなってる気もする。
もう帰ろ。そう呟いて、ヨロヨロと立ち上がる。
自転車のハンドルを握りながら、なにか別のアプローチを考えないといけないと思う。
どんな方法があるのか、全く名案が浮かばないままで、疲れた足を叱咤しながらペダルを漕ぐ。
帰り道。日の落ちた住宅街に、パトカーの赤い光が見えた。引き抜かれた電信柱のある辺りだ。
ふと、この数日の間街で起こったおかしな出来事を警察は把握しているのだろうか、と考えた。
電信柱や並木が引き抜かれた事件は、明らかに器物損壊だろう。当然、犯人を捜しているはずだ。
もし私が、自分の知っている情報をすべて警察に伝えたらどうなるだろう。
聞き込みのプロである彼らが、人海戦術であの円の中心の住宅街を回ったならば、恐らく半日とかからずにエキドナを見つけ出せるはずだ。
母親に殺意を抱く少女を。
でも駄目だ。警察はこんなことを信じない。取り合わない。それだけははっきりと分かる。
私だって信じられないのだから。
街中のすべての怪現象が、たった一人の少女によって引き起こされているなんて。
パトカーの赤色灯と野次馬たちのざわめきを尻目に、私はその道を避けて少し遠回りしながら帰路に着いた。
家に着くと、母親が「ご飯は?」と聞いてきた。
心身ともに疲れているせいか食欲が湧かず、制服を脱ぎながら「あとで」と返事をする。
なにか小言を言われたが、適当に聞き流した。まともに応対したくない気分だった。
些細な口喧嘩でも、それがエスカレートすることを恐れていたのかも知れない。
自分の部屋を見回しながら、クッションに腰を下ろし溜息をつく。
小さなテーブルの上には、水曜日に買った『世界の怪奇現象ファイル』が伏せられている。
その周囲には、昨日先輩に借りたポルターガイスト現象に関連するオカルト雑誌の類が、乱雑に転がっている。
そして、その横の本棚には、中学時代に買い集めた占いに関する本が、所狭しと並んでいた。
勉強している形跡のない勉強机の上には、怪しげな石ころ……なんて部屋だ。
我ながら、顔を手で覆いたくなる。
今時の女子高生の部屋としては『惨状』とも言うべき有様を、複雑な気持ちで眺めていると、ふいにテーブルの下に落ちている物に気がついた。
紙袋だ。デパートの包装がしてある。
なんだっけ、と思いながら、なんの気なしにそれを手に取り、封をしているシールを剥がす。
中からは鋏が出て来た。
緑色のありふれた鋏。
私はそれを見た瞬間、氷で身体を締め付けられるような、ジワジワとした不安感に襲われた。
なんだこれは?
鋏だ。ただの鋏。いつ買った?
そう、あれは石の雨が降った水曜日。
デパートで『世界の怪奇現象ファイル』を手に入れたときに、一緒に買った物だ。
待て、おかしいぞ。思い出せ。
そもそも、私はデパートにその本を買いに行ったのではない。鋏を買いに行ったのだ。
石の雨の現場を見た後、その近くの商店街の雑貨店で売り切れていたので、わざわざ足を伸ばして……
ドキンドキンと心臓が脈打つ。
“鋏を買わないといけない気がしていた”
そのときは。確かに。
何故?
思い出せない。
その鋏を買って帰った日。私はそんな物を買ったことも忘れて、こうして放り出している。
要らない物を、どうして買ったんだろう?
急に頭の中に、夢の記憶がフラッシュバックし始めた。
夢の中で私は足音を聞く。
そして玄関に向かい、背伸びをしてドアのチェーンを外す。
顔を出した母親の首筋に刃物を走らせる……
吐き気がして、口元を押さえる。
刃物だ。あの夢の中で、自分が持っている刃物はなんだ?
もやもやして、握っている感覚が思い出せない。ただ、キラリと輝いた瞬間だけが脳裏に焼きついている。
あれが鋏だったんじゃないのか。
最悪の想像が頭の中を駆け巡る。
夢の中で少女になった私は、鋏で母親に切りつけた。
その“思い出せなかった”記憶が、潜在意識の奥底で私の行動を縛り付け、半ば無意識のうちに、新しい鋏を購入させたのだろうか。
だとしたら………
私は立ち上がり、鋏を手に部屋を飛び出して「ちょっと外、行く」と、居間の方に一声叫んでから玄関を出た。
自転車に乗って駆け出す。
途中、通り過ぎたゴミ捨て場に鋏を投げ捨てる。
「ちくしょう」
自分のバカさ加減に心底腹を立てていた。
外は暗い。何時だ?まだ店は開いている時間か?気が逸ってペダルを踏み外しそうになる。
人気の少ない近くの商店街には、まだポツリポツリと明かりが灯っていた。
自転車をとめ、子どものころからよく来ていた雑貨屋に飛び込む。
062 師匠シリーズ「怪物 『結』上3」
息を切らしてやって来た私に、驚いた顔で店のおばちゃんが近寄って来る。
「なにが要るの?」
その言葉に、息を整えながらようやく私は「はさみ」と言う。
するとおばちゃんは申し訳なさそうな顔になって、「ごめんねぇ。ちょうど売り切れてるのよ」と言った。
想像していたこととは言え、ゾクリと鳥肌が立つ感覚に襲われる。
「誰か、大口で買ってったの?」
「ううん。今週はぽつぽつ売れてて、昨日在庫がなくなっちゃったから、注文したとこ。
明日には入ると思うけど……」
どんな人が買っていったのかと聞いてみたが、若者もいれば年配の人もいたそうだ。
「どうする?明日来るなら取っとくけど」と聞くおばちゃんに、「いい。急ぎだから他を探してみる」と言って店を出る。
少し足を伸ばし、私は鋏を置いてそうな店を片っ端から見て回った。
店仕舞いをした後の店もあったが、閉じかけたシャッターから強引に潜り込み、「鋏を探してるんですが」と言った。
そのすべての店で、同じ答えが返って来た。
『売り切れ』と。
最後に私は、一昨日の水曜日に鋏と本を買ったデパートに向かった。
閉店時間まぎわでまばらになった客の中を走り、まだ開いている雑貨コーナーに飛び込む。
中ほどにあった日用品の棚には、異様な光景が広がっていた。
ありとあらゆる日用雑貨が立ち並ぶなか、格子状のラックの一部だけがすっぽりと抜け落ちている。
カッターも、鉛筆も、定規も、消しゴムも、修正液も、ステープルも、コンパスでさえ複数品目が取り揃えられているのに。
鋏だけがなかった。ただのひとつも。
私はその棚の前に立ち尽し、生唾を飲み込んでいた。
鋏が街から消えている!
いや、消えているのではない。その懐の奥深くに隠されて、使われるときをじっと待っているのだ。
それは今日かも知れないし、明日かも知れない。
夢を見ている少女が、母親を殺すことを決めた日に、私たちはその殺意に囚われて、己の母親にその刃を向けることになるのかも知れない。
どうしたらいい?どうすればいいんだ?
自らに繰り返し問い掛けながら、私は家に帰った。するべきことが見つからない。
けれど、今動かなかったら、取り返しのつかないことになるかも知れない。
どうすればいいのか。するべきことが見つからない。
巡る思考を持て余して、どういう道順で帰ったのかも定かではない。
兎にも角にも帰り着き、玄関からコソコソと入ると母親に見つかった。
「どこ行ってたの。もう知らないから、勝手に食べなさい」
台所にはラップで包まれた料理が置かれている。
食欲は無かったが、無理やりにでもお腹に詰め込んだ。体力こそが気力の源だ。
あまり良くない頭にも、栄養を少しだけでも回さないといけない。
食べ終わってお風呂に入る。
今日は学校が終わってから、休む暇がないほど駆け回っていた。それも、夏日のうだるような暑さの中を。
それでも湯船に浸かることはせず、ほとんど行水で汗だけを流して早々に上がる。
次に入る妹と脱衣場ですれ違ったとき、「お姉ちゃん、お風呂出るの早っ。乙女じゃな~い」とからかわれた。
一発頭をどついてから、自分の部屋に戻る。
ドアを閉め、机の引き出しに入れてあった、愛用のタロットカードを取り出す。
それを手にしたままじっと考える。
時計の音がチッチッチッ、と部屋に響く。濡れた髪がピタリと頬にくっつく。
駄目だな。私ごときの占いが通用する状況ではない。
もっと早い段階ならば、この事態に至るまでにするべきことの指針にはなったかも知れないけれど。
今必要なのは、エキドナを、母親に殺意を抱く少女を、探し出すための具体的な方法だ。
あるいは、探し出さずとも、この事態を解決するだけの“力”だ。
私は机の上に放り投げた鞄から、同級生の住所録を取り出す。
今日の昼間、カラフルな地図を完成させるのに活躍した資料だ。
パラパラと頁を捲り、間崎京子の連絡先を探し当てる。
そこに書いてある電話番号をメモしてから部屋を出て、階段を降りてから、1階の廊下に置いてある電話に向かう。
良かった。誰もいない。居間の方からはテレビの音が漏れてきている。
メモに書かれた番号を押して、コール音を数える。
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ………
『はい』
ななつめかやっつめで相手が出た。聞き覚えのある声だ。ホッとする。良かった。
家族が出たらどうしようかと思っていた。
それどころか、使用人のような人が電話口に出ることさえ想定して、緊張していたのだ。
彼女の妙に気どった喋り方などから、前近代的なお屋敷のような家を想像していた。
そんな家には、きっと彼女のことを『お嬢様』などと呼ぶ、使用人がいるに違いないのだ。
だがひとまず、その想像は脇に置くことにする。
「あの、私、ヤマナカだけど。同じ学年の」
少しどもりながら、あまり親しくもないのにいきなり電話してしまったことを詫びる。
電話口の向こうの間崎京子は平然とした声で、気にしなくて良い、電話してくれて嬉しい、という旨の言葉を綺麗な発音で告げる。
どう切り出そうか迷っていると、彼女はこう言った。
『エキドナを探したいのね』
ドキッとする。
私のイメージの中で、間崎京子は何度もその単語を口にしていたが、現実に耳にするのは初めてだった。
ギリシャ神話の怪物たちの名前を挙げて、共通点を探せと言った彼女の謎掛けが、本当にこの街に起こりつつある怪現象を理解した上で、それを端的に表現したものだったのだと、私は改めて確信する。
いったいこの女は、なにをどこまで掴んでいるのか。
母親を殺す夢を見ていないというその彼女が、何故あんなに早い時点で、街を騒がせている怪現象が、たった一人の人間によって起こされているのだと推理出来たのか。
私のように、あちこちを駆けずり回っている様子もないのに、怪現象の正体を、恐ろしく強大なポルターガイスト現象だと見抜いた上で、『ファフロツキーズ』という言葉に振り回されるな、などという忠告を私にしている。
どうしてこんなにまで事態を把握できているのだろう。
「……そうだ。これからなにが起こるのか、おまえなら知っているだろう。それを止めたい。力を貸してくれ」
『なにが起こるの?』
間崎京子は澄ました声でそう問い掛けてくる。
私は儀式的なものと割り切って、今日一日で私がしたこと、そして知ったことを話して聞かせた。
『そんなことがあったの』
面白そうにそう言った後、彼女の呼吸音が急に乱れる。
受話器から口を離した気配がして、そのすぐ後にコン、コン、と咳き込む微かな音が聞こえた。
「どうした」
私の呼び掛けに、少しして『大丈夫。ちょっとね』という返事が返って来る。
今更ながら、彼女が病欠や早退の多い生徒だったことを思い出す。
彼女は私よりも背が高いけれど、線が細く、透き通るようなその白い肌も含め、一見して病弱そうなイメージを抱かせるような容姿をしている。
そう言えば、今日も早引けをしていたな。
そう思ったとき、つい先ほどの、駆けずり回っている様子もないのに、どうしてこんなに事態の真相を掴んでいるのか、という疑問がもう一度浮き上がってくる。
もし。もし、だ。もし彼女の病欠や体調が悪いからという理由の早退が、すべて嘘だとしたならば。
彼女には十分な時間がある。
(了)
山の不可思議事件簿/上村信太郎