059 師匠シリーズ「三人目の大人」
小学校二年生の教室で、図工の時間に『あなたの家族を描いてね』という課題が出た。
みんなお喋りをしながら、色鉛筆で画用紙いっぱいに絵を描いた。
原っぱにお父さんとお母さんと女の子が、ニコニコ笑いながら並んでいる絵。
スベリ台のようなものに乗って遊んでいる子ども二人を、お父さんとお母さんが見ている絵。
お父さんとお母さんだけではなく、おじいちゃんおばあちゃんも一緒に並んでいる絵。
飼っている猫や犬も一緒に描いている子が多かった。
その年代の子どもは、ペットも家族の一員という認識が強いのだろう。
授業が終わり、描きあがった作品をひとつひとつ見ていた先生は、ふと、ある子が描いた絵に首を傾げた。
それはクラスでも大人しい、目立たない男の子が描いたもので、見た目には何色もの色鉛筆をふんだんに使い、賑やかで楽しい絵になっている。
けれど、そこには奇妙な違和感があった。
画用紙には、家族がテーブルらしきものを囲んで座っている絵が描かれている。
食事どきの団欒の風景だろうか。
みんなこちらがわを向いているのだが、その構成がどこかおかしい。
左から、お父さんらしい眼鏡を掛けた大人と、お母さんらしいパーマ頭の大人、そして男の子が一人。
さらに右端には、もう一人の大人がいる。
みんな笑っていて、口の中は赤い色で豪快に塗られているのに、右端の大人だけは口を閉じたまま、無表情で座っている。
目は糸のように細い。
大人だということは身体の大きさで分かる。
クラスの子どもたちはみんな、子どもである自分と大人をはっきり大きさで区別している。
その右端の無表情の大人は、年齢はよくわからないが、皺を表す線がまったくないので、少なくとも老人ではないようだった。
三人の大人と一人の子ども。
………
それはどこか、人を不安な気持ちにさせる絵だった。
先生はその男の子の家族構成を思い出す。
団地のアパートの一室に住んでいる一家で、お父さんとお母さんとその一人息子の、三人家族だったはず。
では、この三人目の大人はいったい誰なのだろう。
最近、親戚でも遊びに来ていたのだろうか?
そう思って、先生はこびり付くような気持ちの悪さを振り払う。
気を取り直して次の絵をめくる。
けれど頭の片隅では、その三人目の大人が、どうして笑っている家族の中で、一人だけ無表情に描かれているのだろうと、考えずにはいられなかった。
――2週間が過ぎた。
その日は参観日で、教室の後ろにズラリと並ぶ着飾った大人たちに、子どもたちは気もそぞろ。
いつもは張り切って悪さをする子も、その時ばかりはカチンコチンに緊張して、大人しくなってしまっている。
先生は授業の終わりに、「このあいだの図工の時間に、みんな家族の絵を描いたよね」と言った。
きゃあ、という子どもたちの歓声。
そして先生は、授業参観をしている父兄たちの後ろを手で示し、「後ろの壁に貼っているのがその絵です」と言った。
父兄たちは一斉に振り返り、我が子の作品を見ようと、絵の下に貼られた名前を頼りに探し始める。
そしてお母さんたちは、「いやぁ」と口々に言って、大げさな身振りで恥ずかしがる。
お父さんたちは静かに苦笑をする。
子どもたちは、てんでに騒ぎ始めて大はしゃぎ。
そんな光景を微笑ましく眺めていた先生は、父兄たちに話しかけようと、教壇を降りて歩き始める。
その瞬間、つんざくような悲鳴が上った。
悲鳴は教室中に響き渡り、大人も子どもも息を呑んで動きを止める。
その声の主は、壁の隅の絵を見ていたパーマ頭の女性だった。
先生が駆け寄ると、その女性は目を剥き、指を鉤のように折り曲げて口元にあてたまま叫び続けている。
その視線の先には、絵の中でテーブルの端に座る、三人目の大人の無表情な顔があった。
「という怪談があってな」と師匠は言った。
大学に入ったばかりの春のことだった。
彼は大学のサークルの先輩だったが、サークル活動とはまったく無関係に重度のオカルトマニアで、僕はその後ろをヨチヨチとついていく、弟子というか子どものような存在だった。
「ここはどこですか」
一応聞いてみたが、答えは薄々わかっていた。
僕たちは人気のない団地の、打ち捨てられて廃墟同然になっている、アパートの一室に忍び込んでいた。
僕たちがしゃがみ込む畳には、土足の跡や、空き缶、何かが焦げた跡などがある。
少なくとも、人が住まなくなって五年以上は経っている様子だった。
師匠は言う。
「その三人目の大人を描いた子どもが、家族と住んでいた部屋だ」
「実話なんですか」
そう聞くと、頷きながら、「もともと巷の怪談として広まってるわけじゃなくて、個人的なツテで収集した話だ」
と言って、部屋を照らしていた懐中電灯を消した。
深夜の一時過ぎ。辺りは暗闇に覆われる。
どうして明かりを消すんだろうと思いながら、じわじわとした恐怖心が鎌首をもたげてくる。
「怪談の意味はわかったよな」と、師匠らしき声が暗がりから聞こえる。
なんとなく、わかる。
母親が最後に悲鳴を上げるのは、その三人目の大人が、本来そこに描かれていてはおかしい人物だったからだ。
まったく心当たりのない人物ではない。
そうならば、『誰かしら』と首を捻るくらいで、そこまで過剰な反応は起こさないだろう。
知っているのに、そこにいてはいけない人物。
それも、死んでいなくなった家族などであれば、それを絵の中に描いた男の子の感性に涙ぐみこそすれ、恐怖のあまり悲鳴を上げたりはしないだろう。
知ってはいるが、家族であったこともなく、しかもテーブルを囲んでいてはいけない人物。
暗い部屋に微かな月の光が滲むように射し込み、柱や壁や目の前に座っているはずの師匠の輪郭を、おぼろげに映し出している。
かつてテーブルが置かれていたであろう六畳の居間に、僕は身を硬くして座っている。
闇の中に青白い無表情の顔が浮かび上がりそうな気がして、どうしようもない寒気に襲われる。
師匠が張り詰めた空気を震わせるように囁く。
「実は、気づいていないかも知れないが、この話を聞いた人間にも、ある影響が自然と及ぼされる」
ふーっ、という息を吐き出す音。
僕も息を吸って、吐く。
「話を聞いただけなのに、おまえは何故かもう、その顔を想像している」
心臓が脈打ち、耳を塞ぎたくなる衝動に駆られる。
「大人と聞いただけなのに、何故かおまえはその顔を、 女ではなく、口を閉じた無表情の男の顔として想像してしまっている」
僕は耳を塞いだ。そして目を瞑る。頭が勝手に虚空に浮かぶ顔を想像している。
どこからともなく声が聞こえてくる。
それがここにいてはいけない三人目の顔だよ
060 師匠シリーズ「怪物 『承』1」
怖い夢を見ていた気がする。
朝の光がやけに騒々しく感じる。
天井を見上げながら、両手を頭の上に挙げて伸びをする。自分が嫌な汗を掻いていることに気づく。
掛け布団を跳ね除けて身体を起こす。
夢の残滓がまだ頭の中に残っている。
現実の眼は閉じられていたのに、視覚情報として記憶に刻み込まれた夢の光景。
今まで不思議だとは思わなかったのに、今日はそれが酷く奇妙なことに思えた。
夢の中で私は、やけに暗い部屋に一人でいる。
散らかった壁際に、じっと座ってなにかを待っている。
やがて外から足音が聞こえて、私は動き出す。玄関に立ち、ドアに耳をつけて息を殺す。
足音が下から登ってくる。
私はその足音が母親のだと知っている。
やがてその音がドアの前で止まる。ドンドンドンというドアを叩く振動。
背伸びをして、チェーンを外す。そしてロックをカチリと捻る。
ドアが開けられ、私はその向こうに立っている人間に、話しかけることも、笑いかけることも、耳を傾けることもしなかった。
ただ、月だけがその背中越しに冴えている。
そして血飛沫が舞って、私の視界を真っ赤に染める。
世界がたったの一つの色になる。
母親は崩れ落ち、もう呼吸をしなくなる……
「うああ」
ベッドのシーツを握り締めながら、思わずそんな声が出た。自分でも驚いた。
それは恐怖心を身体の内側から逃がすための、自己防衛本能だったのかも知れない。
すぐに冷静になる。
生々しい夢だった。母親とは最近衝突することが多いが、まさか殺してしまう夢を見るなんて。
これが私の潜在意識の底にある願望なのだろうか、と思うと寒気がしてくる。
この間からずっと見ていた怖い夢は、この夢だったのだろうか?
壁のカレンダーを見る。
木曜日。今日も学校がある。憂鬱だ。
そのころになって、ようやく窓の外の音に気がついた。遠くで釘を打っているような音。
いや、ハンマーで杭を叩いている音か。どちらにしても耳障りだ。
イライラとしながら服に着替える。母親が起こしに来る前に。
今日もスズメの鳴き声は聞こえない。かわりの朝のリズムがこんな不快な音だなんて。
そのせいであんな夢を見たのだろうか。
そうだったらまだいい。
その日の朝の食卓は気まずかった。
学校へ向かう途中、私はどこで工事をしているのかと思い、音を頼りにキョロキョロとしていたが、出処は判然としなかった。
やがてその耳障りな音も途絶える。
こんな平日の朝早くから迷惑だな。
その時はまだその程度に思っていただけだった。
遅刻寸前で教室に滑り込んだ直後のホームルーム中、先生が意外なことを言った。
「昨日は変な一日だったなぁ。新聞見たか。あれ、近所なんだよ」
石の雨のことだ。そう思ったけれど、そのすぐ後に先生はボソリと言った。
「木がなあ……」
木?
首を傾げていると、さっさと話題を切り上げて先生は教室を出て行った。
一時間目が始まる前に、出来るだけ情報収集する。
いつもはあまりクラスメートと会話をしない私だが、なりふり構っていられない気分だった。
すぐにさっき先生が言っていたのが、昨日の夕刊ではなく今日の朝刊だったことが分かる。
しまった。読んでいなかった。母親に怒られてでも食べながら読めば良かった。
話を総合するに、どうやらこんなことがあったらしい。
昨日の夜九時過ぎ、市内の住宅地の道路沿いの並木が、15メートルに渡って何者かに掘り返され、根っこごと引っこ抜かれて、その場に転がされているのを、通りがかった住民によって発見された。
付近の住民によると、夜九時前には間違いなく並木はいつも通り揃っていたらしい。
わずか数十分で6本もの成木を土から引っこ抜くとなると、重機でもなければ不可能だろう。
それが、周辺住民の誰もそんな騒動に気づかなかったというのだ。
いったい誰が?という疑問とともに、どうやって?という点も大きい。
そして何故?
けれど私がもっと驚いたのは、次の休み時間だった。
チャイムが鳴った後、教室中で交換される情報に耳をそばだてていた私は、この街で昨日起こったことが、石の雨や並木の事件だけではなかったことを知った。
市民図書館の本棚の一つから収められていた本がいきなりすべて飛び出して、床中に散乱した事件。
天井からぶらさがったガソリンスタンドの給油ホースが、風もないのに大揺れをして、一時間近く給油できなかった事件。
アーケード内の大時計の短針と長針が、何もしていないのにぐるぐると高速で回り続けた事件。
駅前のビルが原因不明の停電に襲われ、その後フロアごとにでたらめな照明の点滅を繰り返したという事件。
どれも不思議な出来事ばかりだ。
一つ一つを取ると、『不思議だね』という言葉で終わってしまい、1ヶ月もすると忘れられる程度の噂話なのかも知れない。
けれど、そのどれもが昨日のたった一日で起こったのだと考えると、薄ら寒くなってくる。
三時間目の休み時間には、私も自然な風を装ってクラスメートたちの噂話の輪に入り込む。
そのグループでは、情報通の親から仕入れたらしい噂を、興奮気味に話す子が中心になっていた。
「そのコンビニが凄かったらしいよ。誰も触ってないのにアイスのボックスのカバーが開いたり、電気がいきなり消えたり、勝手にシフトが動いたり、なんにもしてないのに、棚の雑誌がパラパラめくれたりしたらしいよ」
シフトは関係ないだろうと思いながら聞いていたが、なんだか段々と内容が扇情的になってきている気がする。
どこまでが本当なのか分からない。
昼休みには、いつもよりゆっくりお弁当を食べながら、複数のグループのお喋りに耳を尖らせていた。
「あとさぁ。今日の朝、なんか変な音がしてたんだよね」
そんな言葉にピクリと反応する。
喋ったその子にお箸を向けて、別の子が「あ、あたしの近所も。どっかで朝っぱらから工事してんのよ。騒音公害よね」と言った。
私の中にインスピレーションが走り、席を立つ。そして、校内に一つだけある公衆電話に早足で向かった。
電話の周囲にはほとんど人がいない。何故か分からないが、あまり目立ちたくなかったので好都合だ。
備え付けの電話帳で、市役所の番号を探す。
どこが担当なのか分からないので、代表番号に掛けて内容を告げる。
『内線でお繋ぎします』という言葉のあと、保留音をたっぷり聞かされてから、ようやく電話の相手が出た。
聞きたいことを単刀直入に話す。苛立ったような声が返ってきた。
『あのですね。今、市内でそんな公共工事はやっていません。じゃあ民間企業の騒音公害だって言われても、それがどこでやってるのかもわからないじゃ、注意のしようもないでしょう?朝からなんなんですかいったい』
聞きもしないことまで返ってきた。そして電話は切られる。思わず時計を見るが、一二時を回っている。
ということは、朝からとは、別の人からの電話のことらしい。
それも、一件や二件ではなさそうだ。
分かったことは、市内の恐らく複数の場所で、工事をするような音が聞こえているということ。
しかも、どこで行われているのか誰にも分からない工事が。
いったい、これはなんだ?
なにかが私たちの周囲で起こりつつあるのに、それがなんなのか未だに分からない。
ただ、すべてが見えない糸で繋がっていることだけは分かる。
鳴かないスズメ。思い出せない怖い夢。落ちてくる石。引き抜かれる並木。音だけの工事。
街中で起こった奇妙な出来事。
表面の手触りに騙されてはいけない。本質から眼を逸らしてはいけない。
公衆電話の前で私の心は静かになっていった。
廊下へ向けて歩き出す。
あいつはいるだろうか。
会わなくてはいけない。そして聞かなくては。
すれ違う女子学生たちと、私は同じ服を着ている。
彼女たちは教材を抱いている。もたれるように笑いあっている。パンと牛乳を持って歩いている。
私は教室へ急いでいる。
けれどそこには明らかな断絶がある。
それは、私自身が一方的に作ってしまった断絶なのかも知れない。
でも、その断絶を心地よく感じている自分がいる。
同じ噂を聞いているのに、私だけは日常から足を踏み外している。
(了)