054 師匠シリーズ「人形3」
礼子さんが怯えたような顔で頭を抱える。みかっちさんも目の焦点が合っていない。
「先日の温泉旅行。その人形がバッグから出てくるところを見たのは、彼女の他にキミだけだ。それは本当にあの人形だったのか?」
師匠の詰問にみかっちさんはうろたえて、「え、だって」と口ごもった。
そして「あれ?あれ?」と、両手で自分の頭を挟むように繰り返す。
「人形を絵に描いたと言ったが、具体的にどこでどうやって描いたか、今説明できるか」
「え?うそ?あれ?」
みかっちさんは今にも崩れ落ちそうに小刻みに震えながら、なにも答えられなかった。
「あの写真持ってきて」との師匠の耳打ちにすかさず従い、ほどなく俺は三人の前に写真を掲げた。
「僕はその人形を描いたという絵の、着物の襟元を見ておかしいと思った。それは合せ方が、通常と逆の左前になっていたからだ」
師匠は「洋服とは違い、和服は男女ともに右前で合せるのが伝統だ」と語った。
「これに対し、死んだ者の死装束は左前で整えられえる。北枕などと同じく、葬儀の際の振る舞いを“ハレ”と逆にすることで、死の忌みを日常から遠ざけていたんだ。だから子どもの遊び道具であり、裁縫の練習台であった、いわば日常に属する市松人形が、左前であってはおかしい」
こんなことは説明するまでもなかったか、と呟いてから師匠は、みかっちさんの方を向いた。
「モデルを見て描いたのであれば、こんな間違いは犯さないはずだ。絵の技法上の意図的なものでない限り、彼女はその人形を見ていないんじゃないかと、その時少し不審に思った」
そして写真を指さす。
「そこで出てきたのが、この銀板写真だ。銀板写真は、明治の志士の写真などで知られる湿板写真や、その後の乾板写真と大きく異なる性格を持っている。それは、被写体を左右逆に写し込むという、技術的性質だ」
え?と俺は驚いて写真を見た。
文字の類は写真に写っていないので、左右が逆であるかどうかは咄嗟に判断がつかない。
そうだ。着物の襟だ。と気づいてから、もう一度三人の女性の襟元をよく見た。
本人から見て、左側の襟が上になっている。
「ホントだ。左前になってます」と言うと、師匠に話の腰を折るなと言わんばかりに、「バカ、左前ってのは、本人から見て右側の襟が上に来ることだ」と溜め息をつかれた。
あれ?じゃあ写真の女性は右前なわけで、正しい着方をしていることになる。左右逆に写っていないじゃないか。
師匠は人さし指を左右に振ってから続けた。
「これが日本人の迷信深いところだ。銀板写真が撮られた当時、被写体は武家や公家などの、支配階級の子弟たちだったわけだが、出来上がった己の写真が、死装束である左前となっていては縁起が悪いために、わざわざ衣服を逆に着て撮影していたんだ。もっとも、単に見栄えの問題もあったのだろう。武士など刀まで右の腰に挿し直して撮っている。当時の銀板写真を良く見ると、襟元や腰の大小が変に納まり悪く写っているから、彼らの微笑ましい努力の跡が垣間見えるってものだ」
ということは、つまりこの着物姿の三人の女性も、撮影時にわざわざ左前にしてカメラの前に座ったのか。
俺は感心し、言われなかったら気づかなかったであろう、百年の秘密に触れたことに、ある種の快感を覚えた。
「そこでもう一度、この真ん中の女性が抱える人形を見て欲しい」
師匠の言葉に視線をそこに集中させる。
人形の襟元が他の女性たちと逆に合せられている。左前だ。
銀板写真は左右を逆に写すので、つまり撮影時には右前だったことになる。
「市松人形としてはこれで正しい。ただ、撮り終わったあとの写真が間違っていただけだ。だから……」
と言って、師匠はみかっちさんに視線を向け、笑い掛けた。
「キミのあの絵は、この写真の一見左前に見える人形を描いたものなんだ。キミは人形を絵に描いたと言いながら、人形を見ていない。奇妙な記憶の混濁があるようだ。なぜなら、そんな人形はもう存在していないんだから」
キャアァー!!
という甲高い金属的な悲鳴が家中に響き渡った。
俺は背筋を凍らせるような衝撃に体を硬直させる。
頭を抱えて俯いている礼子さんの口から出たものにしてはおかしい。
まるで、家中の壁から反響してきたような声だった。
「その人形がどうしてなくなったのかは知らない。あなたの口からそれが聞けるとも思わなけど。戦争で焼けたのか。処分されたのか……ただ、あなたの中に棲みついて、そこにいる友だちの中にも感染するように侵入したそれは、この世に異様な執着を持っているみたいだ。自分の存在を再び世界と交わらせようとする、意思のようなものを感じる。実際に絵という形で、一度滅びたものが現実に現れたんだから」
ミシミシという嫌な圧迫感が体に迫ってくるようだ。
これは、髪が伸びるだとか涙を流すだとかいう、人形にまつわる怪談と同質のものなのか?
いや、絶対に違う。
俺は底知れない嫌悪感に、体の震えを止めることが出来なかった。
「その人形。あなたの先祖の家業だった写真屋の、商売道具のはずだ。だから実のところ、一見して左前に見えてはおかしいんだ。衣服だけでなく、刀などの道具立ても左右逆にしつらえて撮るように、膝に抱く人形だって持ち主に合せるべきだ。市松人形はもともと、女性や子どもの着せ替え人形なんだ。合せ方を逆にして着せるなんて容易いはず。同じ目的でずっと使う人形ならば、なおさらそうすべきだ。しかし、この写真に残されている姿はそうではない。何故だかわかるかい。それは」
師匠は憂いを帯びたような声で、しかし、俺にだけわかる歓喜の音程をその底に隠して続けた。
「真ん中に写ったものが早死にするという噂のために、この人形を真ん中に据えるってことと、同じ目的のためだ。写真にまつわる穢れをすべて人形に集中させるため、徹底した忌み被せが行われている。つまり、わざわざ死者の服である左前で写真に写るように、この人形だけは右前のままにされているのさ」
吐き気がした。
師匠につれまわされて、今まで見聞きしてきた様々なオカルト的なモノ。
それらに接する時、しばしば腹の底から滲み出すような吐き気を覚えることがあった。
しかしそれは大抵の場合、霊的なものというよりも、人間の悪意に触れた時だったことを思い出す。
「付喪神っていう思想が日本の風土にはあるけど、古くから、人間の身代わりとなるような人形の扱いには、特に注意が払われていた。しかしこいつは酷いね。その人形に蓄積された穢れの行き着く先を誤っていれば、どういうことになるのか想像もつかない」
柱時計の音だけが聞こえる。
静かになった部屋に畳を擦る音をさせて、師匠が俯いたままの礼子さんに近づいた。
「あなたが魅入られた原因は、実にはっきりしている。なくなったはずの人形が、この世に影響を及ぼす依り代としたもの。それは、真ん中で写ったものの寿命が縮まるという噂と同じくらいポピュラーで、江戸末期から明治にかけて、日本人の潜在意識に棲み続けた言葉。“写真に写し撮られたものは、魂を抜かれる”という例のあれだ」
師匠は俺の手からもぎ取った写真の人形のあたりを、手のひらで覆い隠すようにして続けた。
「あなたがおばあちゃんから貰ったという、この写真こそが元凶だよ。人形の形骸は滅んでも、魂は抜かれてここに写し込まれている」
そう言いながら、礼子さんの顔を上げさせた。
目は涙で濡れているが、その光に狂気の色はないように思えた。
「これは僕が貰う。いいね」
礼子さんは震えながら何度も頷いた。
師匠は呆然とするみかっちさんにも同じように声を掛け、「あの絵は置かない方がいい。あれも僕が貰う」と宣告する。
そうして最後に俺に笑い掛け、「おまえからは特に貰うものはないな」と言って、俺の背中を思い切りバンと叩いた。
いきなりだったのでむせ込んだが、その背中の痛みが、俺の体を硬直させていた“嫌な感じ”を一瞬忘れさせた。
「引き上げよう」と師匠は静かに告げた。
その後、礼子さんは糸が切れたようにぐったりと客間のソファーに横たわった。
その顔はしかし、気力と共に憑き物が取れた様に穏やかに見えた。
俺たちは礼子さんに心を残しつつも、その大きな家を辞去した。
みかっちさんが青ざめた顔で、それでも殊勝にハンドルを握り、元来た道を逆に辿っていった。
「あんた何者なのよ」
小さな交差点で一時停止しながら、掠れたような声でそう言って横の師匠を覗き見る。
彼女の中で、『gekoちゃんの彼氏』以外の位置づけが生まれたのは間違いないようだ。
その位置づけがどうあるべきか迷っているのだ。それは俺にしても、出会った頃からの課題だった。
「さあ」と気の無い返事だけして、師匠は窓の外に目をやった。
車は街なかの駐車場に着いて、俺たちはグループ展の行われているギャラリーに舞い戻った。
「ちょっと待ってて」と言って、みかっちさんは店内に消えていった。
と、一分も経たない内に、「絵がない」と喚きながら飛び出して来た。俺たちも慌てて中に入る。
「どこにもないのよ」
そう言って、閑散としたギャラリーの壁に両手を広げて見せた。
確かにない。奥の照明が少し暗い所に飾ってあったはずの人形の絵が、どこにも見当たらない。
「ねえ、私の人形の絵は?どこかに置いた?」と、みかっちさんは受付にいた二人の同年齢と思しき女性に声を掛ける。
「人形の絵?知らない」と二人とも顔を見合わせた。
「あったでしょ、4号の」
畳み掛けるみかっちさんの必死さが相手には伝わらず、二人とも戸惑っているばかりだ。
俺と師匠も、絵があったはずのあたりに立って周囲を見回す。
人形の絵の隣はなんの絵だったか。
瓶とリンゴの絵だったか、2足の靴の絵だったか……どうしても思い出せない。
しかし、壁に飾られた作品が並んでいる様子を見ると、他の絵が入り込む隙間など無いように思える。
薄ら寒くなって来た。
やがてみかっちさんが傍に来て、「搬入の時のリストにもないって、どうなってんの」と、打ちひしがれたように肩を落とす。
「なんかダメ、あたし。あの人形がらみだと、全然記憶があいまい。何がホントなのか全然わかんなくなってきた」
それは俺も同じだ。つい数時間前にこの目で見たはずの絵が、その存在が忽然と消えてしまっている。
「ねえ、このへんから変な声がしたり、黒い髪の毛がいっぱい落ちてたりしたよね」
と、みかっちさんは、再び仲間の方へ声を掛けるが、「えー、なにそれ知らない。あんたなに変ことばっかり言ってんの」と返された。
「その髪の毛は一人で掃除したのか」
納得いかない様子ながらも、師匠の言葉に頷く。
そんなみかっちさんは兎も角、俺たちまで幻を見ていたというのか。
師匠にその存在を否定されてから、あの人形の痕跡が消えていく。
俺は目の前の空間が歪んで行く様な違和感に包まれていた。
まるでこの世を侵食しようとした異物が、己に関わるすべてを絡めとりながら闇に消えていくようだった。
「まさか」と、俺は師匠が脇に抱える布を見た。木枠に納められたあの写真をグルグルに巻いている布だ。
これまでどうにかなっているようだと、それこそ頭がどうにかなりそうだった。
「これは、見ない方がいいな」
師匠は強張った表情で、しっかりとそれを抱え込んだ。
そのあと、師匠がそれを処分したのかどうかは知らない。
055 師匠シリーズ「天使1」
京介さんから聞いた話だ。
怖い夢を見ていた気がする。
枕元の目覚まし時計を止めて思い出そうとする。カーテンの隙間から射し込む朝の光が思考の邪魔だ。
もやもやした頭のまま硬い歯ブラシをくわえる。
セーラー服に着替え、靴下を履いて鏡の前、ニッと口元だけ笑うとようやく頭がすっきりして来る。
そして、その頃になってまだ朝ごはんを食べていないことに気づく。
ま、いいか、と思う。
朝ごはんくらい食べなさいという母親のお説教を聞き流して家を出る。
今日は風があって涼しい。本格的な夏の到来はもう少し先のようだ。
大通りに出ると、サラリーマンや中高生の群れが思い思いの歩調で行き来している。
私もその流れにのって朝の道を歩く。
この春から通い始めた女子高校は、ただ近いからという理由だけで決めてしまったようなものだ。
それがたまたま私立だったというわけで、両親にはさぞ迷惑だったことだろう。
薄くて軽い鞄を片手に歩くこと十分あまり。
高校の門をくぐって自分の下駄箱の前に立つと、今ごろになってお腹が減ってくる。
ああ、バターをたっぷりぬった食パンが食べたい。
そんなことを思いながらフタを開けると、上履きの他に見慣れないものが入っていた。
手紙だ。可愛らしいピンクのシールで封がされている。
とりあえずそのままフタを閉じる。
記憶を確認するまでもなくここは女子高校で、ということは、下駄箱に入っていたピンクのシールの手紙などというものは、つまり『そういう』ものなのだろう。
男子より女子にモテた暗い中学生時代の再現だ。いや、共学でなくなったぶん、もっと事態は深刻だった。
げんなりしながらもう一度下駄箱を開け、手紙を取り出して鞄にねじ込む。
上履きの踵に人差し指を入れて、右手を下駄箱について片足のバランスを取っていると、ふいに誰かの視線を感じた。
顔をあげると、廊下からこっちを見ている女子生徒がいる。
ずいぶんと背が高い。その大人びた表情から三年生かとあたりをつける。
え?なんでこっち見てるの。まさか、あの人が手紙の差出し人だったらどうしよう。
今かなりグシャグシャに鞄に入れちゃった。
そんな自分の逡巡もすべて見透かしたような目つきで、彼女は微かに笑ったかと思うと、
「恨みはなるべく買わない方がいいわ」と、小鳥がさえずるような囁き声で言った。
そして制服を翻し、目の前から去っていった。
その瞬間だ。
周囲に耳が痛くなるような雑音が発生し、何人もの生徒たちが袖の触れ合う距離で私のそばを通り過ぎていった。
ついさっきまで私はなぜか、この下駄箱の前に自分しかいないような錯覚をしていたのだ。
しかし、確かにさっきまでこの空間には、この私と廊下のあの女子生徒の二人しか人間はいなかった。
始業の十分前という慌しい時間に、そんなことがあるはずがないにも関わらず、そのことになんの疑問も持たなかった。
まるで、夢の中で起こる出来事のように。
笑い声。朝の挨拶。下駄箱を閉開する音。無数の音の中で、廊下から囁く声など聞こえるはずはなかった。
私は昇降口のざわめきの中で一人立ち尽くしていた。
「ちひろ~?どうしたの。気分悪いの」
その日の休み時間。浮かない顔をしていた私にヨーコが話かけてきた。
奥という苗字だったが、彼女には奥ゆかしさというものはない。
席が近いこともあって、入学初日からまるで旧来の友人のように私に近づいてきた子だった。
はじめはその馴れ馴れしさに戸惑ったが、元来友だちを作るのが苦手なタイプの私が、新しいクラスでの生活で、すぐに話し相手得られたのは有り難かった。
「ねえ、どったの」
椅子の背中に顎を乗せて体を前後に揺すっている。椅子の足がそれに合わせてカコカコと音を立てる。
「うるさい。それやめて」
そう言うと、「うわ。ご機嫌斜め」と嬉しそうな顔をして椅子を止める。
「腹減った」
思わず出てしまった言葉にヨーコは頷く。
「やっぱりそれか。大食いのくせに低血圧のお寝坊さんなんて、不幸よね」
べつに寝坊してるワケじゃない。というようなことを言おうとして、ふと思い出した別のことを口にした。
「背が高いショートの人、知ってる?たぶん三年生だと思うんだけど」
と言いながら、朝の昇降口で見た切れ長の目やその整った顔つきの説明をなるべく正確に伝える。
するとヨーコは少し考えたあと、「それって、間崎さんじゃないかな」と言った。
「へえ、有名なんだ」
「有名ってわけじゃないと思うけど。同じ一年だし、見たことくらいあるよ。ホラ、A組の」
「え?同い年なのか」
少し驚いた。
「その間崎さんがどうしたの。告られたとか?」
朝のことを説明しようとしてやめた。めんどくさい。
「でも、間崎さんって、なんか気持ち悪いらしいよ。良く知らないけど、呪いとかかけちゃうんだって」
ドキッとする。私も中学時代に趣味の占いを学校でもやっていたら、そんな噂を立てられたことがあった。
高校では少し大人しくしておこうと、学校には今のところ趣味を持ち込んでいない。
「呪い、ね」
教室を何気なく見回した。
その時、遠くの席に座る子と目が合った。地味な目鼻立ちに小柄な体。
髪型こそ違うが、どこか似ている子が二人。顔を寄せ合ってこちらを見ている。
私の視線に気づいたヨーコもそちらを見る。
二人はハッとした表情を一瞬見せたあと、怯えたように目を伏せた。
なんだろう。まだ会話もしたことがない子たちだ。
名前も出てこない。クラスの中でも一番印象が薄いかも知れない。
「ちひろ。怖がらせちゃダメよ」
ヨーコが楽しそうに言う。
「あなた見た目怖いんだから」
そんなことを言ってチクリと私の心のキズを刺す。
目つきが鋭いのは生まれつきで、けっして怒っているわけではないのだが、時として善良な女子から怖がられることがあった。
不本意なことに、背が高いというだけでそのイメージがさらに増幅されるようだ。
眼鏡を掛けている方が島崎いずみ、頬に絆創膏を貼っているのが高野志穂だとヨーコが教えてくれた。
明日には少なくともどちらかは忘れてしまいそうだ。
「マイナーキャラね」とヨーコは笑った。本人たちにも聞こえるかも知れない声で。
五時間目が急に自習になり、私は適当な時間に教室を抜け出した。
校舎裏の人気のない一角が、私の密かなお気に入りだった。
壁の構造に沿って微かな風が吹き髪の先を揺らす。
私は切り取られたような小さな空を見上げながら、どこからか聞こえてくる屋外スポーツのざわめきに耳を傾ける。
こうしている時間は好きだ。たくさんの人がいる場所の片隅に、ぽっかりとあいた穴のような孤独な空間がある。
そう思えるから、学校なんていう息の詰まる所に毎日来られるのだし、そんな空間こそ自分の本当の居場所であるような気がして、心が充足していく気がする。
二本目の煙草に火をつけたとき、壁の曲がり角に誰かの気配を感じた。
慌てて足元に落とそうと身構えると、その誰かは能天気な声を発しながら姿を現した。
「あ~、不良はっけーん」
ヨーコだった。心臓に悪い。
「時々いなくなるのはココだったのね。静かでいいねぇ。あ、怒っちゃった?」
怒りはしないが、秘密の場所の占有が崩されたことに、わずかな失望を覚えたことは確かだった。
ヨーコは隣にツツツと寄って来て、壁に背中をあずける。
「昼休みにさあ、なんかイカツイ先輩来てたけど、あれなに話してたの?」
「ああ、あれは……」
中学時代にやっていた剣道部の先輩だった人が、高校でもやらないかと私を勧誘しに来ているのだ。
何度か断ったが、なかなかしつこい。
「どうして入んないの」
別に大した理由はない。
子どものころ父親に言われるままに通い始めた剣道の道場には、今でも週に二回は顔を出しているし、学校ではもういいやと思っただけだ。
「ふうん。やればいいのに。もったいない」
それから二人でとりとめもない話をした。時間はゆっくりと流れていた。
教室に残したノートは清清しいほど真っ白のまま。それでも悪くない気分だった。
チャイムが頭の上から鳴り響き、ため息をついて体を起こす。
そのときヨーコが言った。
「あのさ、ちひろ。自分がヤンキーとかって噂があるの知ってる?」
「私が?」
笑ってしまう。
「いや、結構マジで。どっかの不良高の男とつるんでるとか、夏休みまでは大人しくしてるだけとか、そんな噂があるし。じっさい、怖がってるコ多いよ」
真剣な顔でそんなことを言われ、思わず手元の煙草を見つめる。
どうでもいいや、めんどくさい。
そう思いながら火を踏みつけた。
その日の放課後、鞄を机の上に乗せて身支度をしていると、ヨーコが遊びに行こうと誘って来た。