046 師匠シリーズ「ともだち」
大学二回の冬。
昼下がりに自転車をこいで幼稚園の前を通りがかった時、見覚えのある後ろ姿が目に入った。
白のペンキで塗られた背の低い壁のそばに立って、向こう側をじっと見ている。
住んでいるアパートの近くだったのでまさかとは思ったが、やはり俺のオカルト道の師匠だった。
子どもたちが園庭で遊んでいる様子を、一心に見つめている二十代半ばの男の姿を、いったいどう表現すればいいのか。
こちらに気づいてないようなので、曲がり角のあたりで自転車を止めたまま様子を伺っていると、
やがて先生に見つかったようで、「違うんです」と聞こえもしない距離で言い訳をしながらこっちに逃げてきた。
目があった瞬間、実に見事なバツの悪い顔をして「違うんだ」と言い、そしてもう一度「違うんだ」と言いながら、曲がり角の塀の向こうに身を隠した。
俺もつられてそちらに引っ込む。
「あの子を見てただけなんだ」
遠くの園庭を指差しているが、ここからではうまく見えない。
「あの青いタイヤの所で、地面に絵を描いてる女の子」
首を伸ばしても、角度的に木やら壁やらが邪魔でさっぱりわからない。
なにより、なにも違わない。
「いつから見てたんですか」との問いに、「ん、一ヶ月くらい前から」とあっさり答え、ますます俺の腰を引かせてくれた。
「そんなにかわいいんですか」
言葉を選んで聞いたつもりだったが、「かわいいかと問われればイエスだが、『そんなに』って頭につけられるとすごく引っ掛かる」
と、不快そうな顔をする。
「一ヶ月前、最初に足を止めたのはあの子じゃなく、あの子のそばにいた奇妙な物体のためだよ」
物体という表現がなんだか気持ち悪い。
「それは見るからにこの世のものではないんだけど、あの子はそれを認識していながら、怯えている様子はなかった。
他の子や先生には、見えてすらいないようだった」
その子はいつもひとりで遊んでいたという。
砂場あそびの仲間に誘われることもなく、かといって他の園児からからかわれることもなく、ただひたすらひとりで絵を描いている。
親が迎えに来る時刻になるまでずっとそうしているのだという。
「他の子が帰っても、なかなかあの子の親は来ないんだ。
日が暮れそうになってから、ようやく若い母親がやって来るんだけど、なんていうか、まともな親じゃないね。
あの子の顔を見ないし、手の引き方なんて、地面に生えた雑草を引っこ抜くみたいな感じ。
虐待?まあ、服から見えてる部分には痕がないけど、どうだろうね」
気分の悪くなる話だ。だが、この異常なオカルト好きが、こんなに執着するからには只事ではないのだろう。
「イマジナリーコンパニオンって、知ってるかい」
聞いたことはあった。
「まあ、簡単にいうと、幼児期の特徴的な幻覚だね。頭の中で想像上の友だちをつくりあげてしまう現象だ。
ただ子どもには幻を幻と認識する力がなくて、普通の友だちに接するようにそれに接してしまい、 周囲の大人を困惑させることがある。
人間関係を構築するための、ある程度の社会性を身につけると、自然に消えていくものだけどね」
それならば俺にも経験がある。
と言っても覚えているわけではないが、両親いわく「お前は仮面ライダーと喋ってた」のだそうだ。
まだしもかわいい方だ。
『ゆうちゃん』とかありそうな名前をつけて、誰もいないのに「ゆうちゃんもう帰るって」なんて言われた日には、親は気味が悪いだろう。
もう一度身を乗り出して、幼稚園の庭を覗いてみる。
帽子の色で年齢をわけているようだ。
青いタイヤのあたりには赤い帽子が見える。赤の帽子は年長組らしい。
目を凝らすと、おさげらしき髪型だけが確認できた。
師匠の言う奇妙な物体は見えない。
しかし、この異常に霊感の強い男に見えるということは、ただの想像上のともだちではないということなのか。
「いや、霊魂なんかじゃないと思う。気味の悪い現われ方をしてるけど、あの子なりのイマジナリーコンパニオンなんだろう。僕にも見えてしまったのは、何故なのかよくわからない。ひょっとしたら彼女の感覚器がとらえているものを、混線したように、リアルタイムで僕のアンテナが拾ってしまっているのか……あの子は強烈な霊媒体質に育つかもね」
そう言って師匠は、慈しむような目で幼稚園児を見つめるのだった。
攣りそうなくらい首を伸ばしても、その女の子の輪郭以外には何も周囲に見あたらない。
追いかけっこをしている一団がタイヤの前を駆け抜けて、その子の描いている絵のあたりを踏んづけていった。
ここからでは表情は分からないが、淡々と絵を直しているようだった。
「で、その空想のともだちってどんなのです?今もあの子の近くにいるんですか」
師匠は「う~ん」と唸ってから、「なんといったらいいのか」と切り出した。
「2頭身くらいのバケモノだね。顔は大人の女。母親じゃない。実在の人物なのかもわからない。
けどたぶん、あの子になんらかの執着心を持っている。
体は紙粘土みたいなのっぺりした灰色。小さな手足はあるけど、あんまり動きがない。ニコニコ笑ってる。
あの子の絵の上でゆらゆら揺れている。今、僕らの方を見ている」
一瞬にして鳥肌が立った。誰かの視線をたしかに感じたからだ。
「普通、他の子どもが大勢いる場所では、イマジナリーコンパニオンは現れない。
本人にとって孤独さを感じる場面で出現するケースが多い。
だけどあの子の場合は、幼稚園という空間さえ、極めて個人的なものになってしまっているらしい。
今はあの物体に完全に捕らわれているように見える。
一度、迎えに来た母親の後をつけようとしたけど、少し離れたところに高そうな車をとめてあって無理だった」
と師匠は言った。
その時、白い壁の向こう側で、エプロン姿の若い先生と、園長先生らしき年配の女性がこちらを指差して、何事か話しているのが目に入った。
焦った俺は、とりあえず自転車に飛び乗って逃げた。
あとから師匠が、手を振りながら走ってついて来ているのに気づいていたが、無視した。
部屋の外にいても、テレビがついているのがわかる。
音なのかなんなのかよくわからないが、とにかくわかる。
周囲の人に聞いても、「あ、わかるわかる」と同意してくれるので、たぶん俺だけではないはずだ。
だからそのときも、ただわかったからわかったとしか言いようがないのだった。
幼稚園から逃げ出したその日の夜である。
そのころ完全に電気を消して寝るくせがついていたので、ふいに目を覚ましたときも暗闇の中だった。
自分の部屋の見慣れた天井がうっすらと見える。
ベッドの上、仰向けのまま半ば夢心地でぼーっとしていると、テレビがついているのに気がついたのである。
部屋の中のテレビではない。薄いドアを隔てた向こうの台所で、どうやらテレビがついているようだ。
そちらに目を向けるが、ドアについている小さな小窓の輪郭がかすかにわかる程度で、その小窓の向こうには光さえ見えない。
音でもない、光でもない。
けれど、テレビがついているのがわかるのである。
もちろん台所にテレビなどない。
俺は半覚醒状態のまま、ただただ不思議な気持ちでベッドからのそりと起き上がり、ふらふらと手探りでドアに向かった。
電気をつけるという発想はなかった。つけたら眩しいだろうなと、寝ぼけた頭で考えたのだと思う。
ゆっくりとドアのノブに手をかけ、向こう側へ押し開ける。
薄暗闇のなか、空中に女の顔が浮かんでいるのが見えた。
いや、顔だけではなかった。冗談のような小さな胴体と手足が、粘土細工のようにくっついている。
それがふわふわと台所のある空間に漂っているのだった。
そのとき、怖いと思ったのかは覚えていない。
ただ気がつくと俺は自分のベッドに戻っており、仰向けのいつもの姿勢で朝の目覚めを迎えたのだった。
夜の出来事を反芻して、鳥肌が立つような気持ち悪さに襲われ、“連れて来てしまった”んじゃないかと身震いした。
朝から師匠の部屋に転がり込んでそのことを話すと、「そんなはずない」と言って笑うのだ。
「幽霊じゃないんだから。
あの女の子の見ている幻を、その子がいない場所で、どうして別の誰かが体験できるっていうんだ。
夢でも見たんだろう」
師匠はそんな言葉を並べ立て、俺もだんだんとそんな気になりかけていた。
思いつきで、その女の顔がある芸能人に似ていたことを口にするまでは。
それを聞いたとたんに師匠の顔つきが変わり、その名前をもう一度俺に確認した。
どうやら師匠の見ていた顔と同じ印象を俺が持ったことに、納得がいかないらしい。
「そうか、わかった」
師匠はニヤリと笑うと説明した。
あの幼稚園の女の子も、その芸能人の面影にわずかに似ているらしい。
ということはつまり、自分自身のイマジナリーコンパニオンに似ているということだ。
女の子は想像上のともだちとして、自己を投影した理想的大人を仕立て上げ、自分を愛さない母親の代わりに、いつもそばにいてくれる存在としたのだ。
母親のようにはならないという反発心から、母親とは違う大人に成長した自分をイメージして。
そして、“ともだち”として相応しい等身にして……
そんな仮説をスラスラと口にする師匠に俺は言った。
「俺、その子の顔なんて見てないですよ。あんな距離じゃ、全然。目が悪いの知ってるでしょ」
俺が女の子の顔からその芸能人を連想した、ということを言いたかったらしい師匠は沈黙した。
それからしばらくして、ゆっくりと顔を上げ、真剣な目をして言うのだ。
「あれがイマジナリーコンパニオンなんかじゃなく、霊的なものだとするなら、 おまえの部屋に出たってことが、どういうことかわかってるのか」
その言葉を聞いた瞬間、悪寒が全身を駆け抜けた。
あからさまに怯え始めた俺を見て、師匠は膝を叩いて言う。
「よし、なんだかわかんないものは、とりあえずブッ殺そう」
やたら頼もしい言葉に頷きそうになるが、穏便にお願いしますというジェスチャーで返す。
「冗談だ」
笑っているが、どこまで本当かわからない。
「まあ放っとこう。どうせとり憑かれてるのは、あの子だ。
なんならここに二、三日泊まってけばいい。たいていのヤツなら逃げてくよ」
そんなハッタリめいたことを言う。まるでこの安アパートが霊場のような言い草だ。
けれど少し気が楽になった。
結局その2頭身の女のバケモノは、二度と俺の前に現れなかった。
師匠も、その正体を結論付ける前に警察を呼ばれてしまい、二度とその幼稚園には近づけなかったらしい。
「警察は霊なんかよりずっと怖い」と、後に彼は語っている。
047 師匠シリーズ「鋏1」
大学三回生のころ、俺はダメ学生街道をひたすら突き進んでいた。
二回生からすでに大学の講義に出なくなりつつあったのだが、三年目に入り、まったく大学に足を踏み入れなくなった。
なにせその春、同じバイトをしていた角南さんという同級生に、バイト先にて
「履修届けの締め切り昨日までだけど、出した?」
と恐る恐る聞かれて、その年の留年を早くも知ったというのだから、親不孝にも程があるというものだ。
では、大学に行かずになにをしていたかというと、パチンコ、麻雀、競馬といったギャンブルに明け暮れては生活費に困窮し、
食べるために平日休日問わずバイトをするという、情けない生活を送っていたのだった。
大学のサークルには顔を出していたが、一番仲の良かった先輩が卒業してしまい、自然に足が遠のいていった。
その先輩は大学院を卒業して、大学図書館の司書におさまっていた。
この人が俺に道を踏み外させた張本人と言っても過言ないのだが、まさかこんなにまともに就職してしまうとは思わなかった。
俺が大学に入ってからの二年間、あれだけ一緒に遊び回っていたのに、片方が学生でなくなってしまうと急に壁が出来たように感じられて、自然と距離を置くようになった。
職場の仲間や、ギャンブル仲間・バイト仲間という、それぞれの新しい世界を築いていく中で、オカルト好きという子供じみた共通項で、かろうじてつながっているような関係だ。
思い返すとそのころの彼は、つきあっていた彼女も学部を卒業し県外に就職してしまっていたせいか、妙に寂しげに見えたものだった。
梅雨が明けたころだっただろうか。
以前よく顔を出していたネット上のオカルトフォーラムの仲間から、オフ会のお誘いがあった。
ここも中心メンバーが二人抜けてからは、まるで代替わりしたように新しい人ばかりになり、少し居辛さを感じて、あまり関わらなくなっていた。
午後八時過ぎ。集合場所は市内のファミレスだったが、俺は妙に緊張して店内に入っていった。
「やぁ」という声がした方に、昔からの顔なじみのみかっちさんという女性を見つけ、少しほっとする。
同じ顔ぶれで何度も重ねたオフ会のような気だるい雰囲気はなく、新しい人の多い、なんというか、ギラギラした空間があった。
オカルト系のオフ会なんだからオカルトの話をしないといけない、という強迫観念めいた空気に、上滑りするようなトークが絡んで、俺には酷く疲れる場所になってしまっていた。
その会話の中で、一際目立っている女性がいた。
積極的に話に加わっているわけではなかったが、周囲の男性陣がやたらと話しかけている。
その原因は明らかで、彼女がゴシック風の黒い服を着こなした、美少女と言っていい容姿をしていたからに他ならない。
俺にしても恋人がいなかった昔は、なにか起こらないかという、そういう下心を持ってオフ会に参加したこともある。
しかしいま、端から冷静にそういう光景を目にしていると、ひどく間が抜けて見える。
その少女はそういう手合いに慣れているのか、淡々とあしらっていた。
しかし、かくいう俺も、その容姿に別の意味で気が惹かれるものがあった。
どうも見覚えがある気がするのである。
すでに飲みほしたコーラのコップを無意識に口に運びながら、チラチラと少女の方を見ていたのだが、
一瞬視線が合ってしまい、すぐに逸らしはしたものの、気まずさに「トイレ、トイレ」と、我ながら情けない独り言をいいながら席を立った。
とりあえず男子トイレで用をたして出てくると、驚いたことにさっきの少女が正面で待っていた。
「ちょっといい?」という言葉に戸惑いながらも、「え?なにが」と返したが、その聞き覚えのある声に、ようやく記憶が呼び覚まされた。
「音響とかいったっけ」
二年くらい前に、若い子ばかりが集まったオカルトフォーラムのオフ会で、俺に『黒い手』という恐ろしいものを押し付けてきた少女だ。
「今のハンドルはキョーコ」
人差し指を空中で躍らせながらそう言う。
響子。
確かにスレッドに参加していたと思しき連中から、さっきそう呼ばれていた気がする。
しかし、俺にとってその響きは、なんだか不吉な予感のする音だった。
「てことは、本名が音ナントカ響子なわけか。音田とか音無とか」
余計な詮索だったらしい。不機嫌そうな眉の形に俺は思わず口を閉ざした。
「ちょっと困ったことがあって……助けて欲しいんだけど」
「は?俺が?」
音響(たとえ頭の中でも、キョーコという単語を出したくない気分だった)は、オフ会の集団のいる席の方へ顔を向けながら、バカにしたような口調で言った。
「あんな連中、てんでレベルが低くて」
それはまあ、そうだろうけれど。
同意しつつも、ではなぜ俺に?という疑問がわいた。
すると彼女は、「黒い手はホンモノだった」と言った。
そして、「アレから逃げ切ったらしいと聞いて、ずっと気になっていた」と言うのだ。
俺は思わず『いや、あれは俺の師匠に助けてもらっただけ』とバラしそうになったが、恥ずべきことに実際に口に出したのは、「まあ、あれくらい」という言葉だった。
その虚勢は、彼女がやはりかわいらしい容姿をしていたことに起因していることは間違いが無いところだ。
「出て話さない?」と言うので頷く。
さっきからオフ会の連中の視線を、肌にザラザラ感じ始めていたのだ。
トイレ前で話し込んでいるツーショットを、これ以上さらしておく気にはなれない。
男どもの敵意に満ちた視線をかい潜って、レジで清算をする。
音響をちらりと見ると、俺に払わせる気満々のようだったが、無視して自分の分だけ払った。
みかっちさんの意味のわからないサムアップに見送られて店を出ると、いきなり行き先に困った。
近くに公園があるが、なんだかいやらしい感じだ。
「居酒屋とかでもいいか」と聞くと、音響は首をヨコに振り、「未成年」と言った。
18、19は成人擬制だと無責任なことを俺が口にすると、驚いたことに彼女は自分を指差して、「16」と言うのである。
俺は思わず逆算する。
「あの時は中3、今は高2」と先回りして答えてくれた。
黒い手は学校の先輩にもらったと言ってなかったっけ、と思うやいなや、また先回りされた。
「中高一貫」
ずいぶんカンのいいやつだと思いながら、近くのコーヒーショップに入った。
俺はオレンジジュースを、音響はパインジュースを注文して、横並びの席に着くと、
ひと時のあいだ沈黙が降りて、ガラス越しに見える夜の街に暫し目を向けていた。
やがて紙が裁たれるようなかすかな音が聞こえた気がして、店内に視線を移す。
すると音響が前を向いたまま手元の紙で出来たコースターを、まるで無意識のように裂いている。
俺の不可解な視線に気がついてか彼女は手を止めて、切れ端のひとつを指で弾いて見せる。
「学校の近くの山に、鋏様ってカミサマがいてね。藪の中に隠れてて、知ってなきゃ絶対見つかんないようなトコなんだけど。見た目は普通の古いお地蔵様で、同じようなのが三つ横に並んでる。でもその中のひとつが鋏様。どれが鋏様かは、夜に一人で行かないとわからない」
スラスラと喋っているようで、その声には緊張感が潜んでいる。
俺は少し彼女を止めて、「なに?それは学校で流行ってる何かなの」と問うと、「そう」という答えが返ってきた。
「その鋏様に、自分が普段使ってるハサミを供えて、名前を三回唱える。すると近いうちに、その名前を唱えられたコが髪を切ることになる」
おまじないの類か。
女子高生らしいといえば女子高生らしい。
「その髪を切るってのは、やっぱり失恋の暗喩?」
「そう。ようするに、自分の好きな男子にモーションかけてる女を、振られるように仕向ける呪い。すでに出来上がってるカップルにも効く」
そう言いながら自分の前髪を、人差し指と中指で挟む真似をする。
「陰湿だ」
思ったままを口にすると、「黒魔術サークルのオフ会に来てる男には言われたくない」と冷静に逆襲された。
「で、その鋏様のせいで、なにか困ったことが起こったわけだ?」
音響はパインジュースにようやく口をつけ、少し考え込むそぶりを見せた。
その横顔には、年齢相応の戸惑いと、冷たく大人びた表情が入り混じっている。
「うちのクラスで、何人かそんなコトをしてるって話を聞いて、試してみた」
「自分のハサミで?」
「赤いやつ。小学校から使ってる。
夜中にひとりで山にあがって、草を掻き分けてるとお地蔵さんの頭が見えて、それから目をつぶって鋏様を探した」
「目を閉じないと見つからない?」
「開けてるとわからない。全部同じに見える」
「真ん中とか、右端とか、先におまじないしてる子に聞けないのか」
「聞けない」
「秘密を教えたら、呪いが効かなくなるとか?」
「そう」
「目を閉じてどうやって探す?」
「手探りで、触る」
「触って分かるもんなの?」
「髪の毛が生えてる」
音響がその言葉を発した途端、再び紙の繊維が裁断される音が俺の耳に届いた。
ぞくりとして身を起こす。
いつのまにか黒い長袖の裾から細い指が伸びて、俺のコースターを静かに引き裂いている。
いつグラスを持ち上げられたのかも分からなかった。
恐る恐る「今、自分がしてることがわかってる?」と聞くと、「わかってる」と、少し苛立ったような声が返ってきた。
俺はあえてそれ以上追及せず、代わりに「髪の毛って、苔かなにか?」と問いかけた。
音響はそれには答えず、「シッ。ちょっと待って」と動きを止める。
溜息をついて、オレンジジュースに手を伸ばしかけた時、なにか嫌な感じのする空気の塊が、背中のすぐ後ろを通り過ぎたような気がした。
未分化の、まだ気配にもなっていないような、濃密な空気が。
周囲には、明るい店内で夜更かしをしている若者たちの声が、何ごともなく飛び交っている。
その只中で身を固まらせている俺は、同じように表情を強張らせている隣の少女に、言葉にし難い仲間意識のようなものを感じていた。
嫌な感じが去ったあと、やがて深く息を吐き、彼女は「とにかく」と言った。
「私は赤いハサミを鋏様に供えて、名前を3べん唱えた」
目を伏せたまま、長い睫がかすかに震えている。
「誰の」
聞き様によっては下世話な問いだったかも知れないが、他意は無く反射的にそう聞いたのだった。
「私の」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中の理性的な部分が首をかしげ――首をかしげたまま、目に見えない別の世界に通じているドアがわずかに開くような、どこか懐かしい感覚に襲われた気がした。
「なぜ」
「だって、何が起こるのか知りたかったから」
ああ。彼女もまた、暗い淵に立っている。そう思った。
「で、何が起こった」
俺の言葉に、消え入りそうな声が帰ってきた。
ハサミの音が聞こえる………
「ちょっと待った。ハサミってのは、失恋で髪を切る羽目になるっていう比喩じゃないのか」
「わからない」
彼女は頭を振った。
「だって、いま好きな男なんていないし。失恋しようがないじゃない」
その言葉が真実なのか判断がつかなかったが、俺は続けて問いかけた。
「そのクラスの仲間に名前を唱えられた女の中で、実際に髪を切った、もしくは“切られた”やつはいるか」
「知らない。ホントに振られたコがいるって話は聞いたけど、髪の毛切ったかどうかまでは分からない」
「その、鋏様の所に置いてきたハサミはどうした」
「……ほんとは見にいっちゃいけないってことになってるんだけど、おとといもう一度行ってみたら……無くなってた」
音響は抑揚の薄い声を顰めると、「どうしたらいいと思う?」と続け、顔を上げた。
「その前にもう少し教えて欲しい。ハサミは一個も無かった?自分のじゃないやつも?」
頷くのを見て、腑に落ちない気持ちになる。
「おまじないの儀式としては、ハサミは供えっぱなしで、取りに戻っちゃいけないってことじゃないのか?だったら、どうして前の人が置いたはずのハサミが無いんだ」
願いが叶ったら取りに戻るという話になっているのかと聞いても、違うという。
誰かが地蔵の手入れをしてるような様子はあったかと聞いたが、
完全に打ち捨てられているような場所で、雑草はボウボウ、花の一つも飾られていない、人から忘れ去られているような状態だというのだ。
何かおかしい。
なにより、今さっき感じた嫌な空気の流れが、事態の不可解さを強めている。
「なあ、その鋏様っていうおまじまいは、昔からあるのかな。先輩から語り継がれた噂とか」
「わからない。たぶんそうじゃないかな」
「だったら、噂が伝わる途中で、その内容がズレて来てるってことはありうるね。元は少し違うおまじないだったのかも知れない。例えば」
言うまいか迷って、やっぱり言った。
「ハサミを供えて、死んで欲しい子の名前を三回唱えれば……」
ガタンと丸い椅子が鳴り、頬に熱い感触が走った。
「あ」と言って、音響は立ったまま自分の右手を見つめる。平手だった。
「ごめんなさい」
そう言ってうつむく姿を見てしまうと、頬の痛みなどもはやどうでもよく、
怯えている少女をわざわざ怖がらせるようなことを言った自分の大人気なさに、腹立ちを覚えるのだった。
「わかった。なんとかする」
安請け合いとは思わなかった。
司書をしているオカルト好きの先輩に泣きつく前に、自分の力でなんとかできるんじゃないかという算段が、すでに頭の中に出来上がりつつあったのだ。
「とりあえず、その鋏様の場所を教えてくれ」
頷くと、音響はバッグから可愛らしいデザインのノートを取り出して、地図を描き始めた。
案内する気はないようだった。得体の知れないものに怯えている今は、それも仕方がないのかも知れない。