今は昔。頃は夏。二度目の田舎への一人旅での事。
2005/07/13(水) 07:10:27 ID:f5HaGqoH0
弟がまた熱を出した。
本当はこの春も、母と弟と俺と三人で千葉の祖父ちゃんの所を訪れるはずだった。
だが、弟が熱を出したから母が家に残り、俺は一人で何日かを祖父ちゃん祖母ちゃんと過ごした。
この夏は、今度こそ五人で一緒に居られるはずだったが、やっぱり無理みたいだ。
弟の度々の体調不良も激しい人見知りも、全て霊的に過敏な体質のせいだと知ったのは、俺がもう少し大きくなってからの事。
で、いつも俺の側にいる犬コロのような弟がいないのはずいぶん寂しい事だった。
祖父ちゃんの家に来て三日が過ぎた。
裏山は、この前怖い目に遭ったからあんまり行きたくないし、一人で海へ行くのは御法度。
馬はまだ祖父ちゃんが一緒でないと自分の命令を聞いてくれない。
仕方がないから河原で一人、石投げをして遊んでいた。
「へたくそだな、おまえ」
振り向くと、俺と同い年くらいの、藍色の裾の短い着物を着た少年がニコニコ笑っていた。
「こうやって投げるんだ」
彼の投げた石は水面を七、八度飛び跳ねて向こう岸へ到着した。
「わ、凄ェなあ、おまえ!」
俺が感心すると、彼は得意げに笑った。
「おれ“さかい”のもんだけど、おまえ、あんまり見た事ねえな。どこのもんだ?」
「俺ん家は“チドリ”だ」
さかいだのチドリだのはお互いの屋号で、ここらでは屋号を名乗り合うのが常の事だが、さかいと言うのは初めて耳にする屋号だった。
「ふーん、おれ太助」
「俺、マコト」
俺のは嘘だ。
俺たち兄弟は七歳になるまで、身内の大人がいない所で本当の名を明かしてはならない、と祖父ちゃんに口が酸っぱくなる程言われていた。
理由は命に関わるかららしい。
だから俺の名はウソなのでマコト、弟は二番目なのでハジメと名乗っていた。
すいっとオニヤンマが俺たちの目の前を通り過ぎた。
あれ捕ろう。
太助はそう言って河原で豆粒のような石を二個拾い、手近の柔らかい葉っぱで別々にくるむと、長い草でそれぞれの端っこを括り付けた。
それをオニヤンマの上へ放り上げると、オニヤンマは警戒して高度を下げるが、石ころの落下速度の方が早い。
胴体に石と石を結び付けた草が触れると、反動で右側にあった石は円を描いて左へ、
左側にあったのは右へ動くから、たちまち石ころ付き草に巻付かれたオニヤンマが地面へ落下してきて一丁上り。
俺が初めて見たトンボの捕り方だ。
「わーッ、すっげえぇ!太助、おまえ凄ェや!」
それほどでもないサ、と言いながら太助は得意満面だった。
「来いよ、もっと面白れえトコで遊ぼうぜ」
走り出した太助の後について行くと、俺の全然知らない森に着いた。
あの河原からこっちに来て、はてこんな所あったかな?と思ったが、俺が方向を勘違いしているのかも知れない。
太助は本当にいろんな事を知っていた。
祖父ちゃんも物知りだが、太助も同じぐらい何でも良く知っている。俺が感心する度、ヤツは謙遜しながらも自慢げな顔をする。
俺たちはお決まりのカブトやクワガタ捕りの他、蔓草に掴まって木から木へ飛び移ったり、落葉の積った崖を尻で滑り降りたりして遊んだ。
我を忘れるぐらい楽しかった。
「なあ、木の上に秘密基地、作らねえ?」
もうすぐ日も暮れようかと言う頃、俺がそう提案すると、太助は目を丸くした。
「ひみつきち?」
「おう、枝やなんかで小屋作ってさ、大人に教えねえで、俺たちだけの秘密の基地にすんだ」
「いいな、それ」
太助はにまっと笑った。
いいな、明日からそれ作ろう。相談は決りだ。
その時、どこかから口笛の様な音が聞えた。
「あ、かあちゃんだ」
太助は口元を手で覆って口笛を吹いた。
帰ろう。
俺たちが連れ立って森から道へ出てくると、太助と同じように袖も裾も短い茶色の着物を着て、引っ詰め髪にした女の人が立っていた。
「かあちゃん、チドリん家のマコトだよ」
こんにちは、と挨拶すると、向うも挨拶を返してくれたが、何だか不思議そうな顔をしている。
「じゃあな、マコト。また、あ・し・た、な?」
眩しいぐらいの夕日の中、太助は母親と仲良く手をつないで帰って行く。
バイバイ、と手を振り、反対方向へ一人帰る俺の目にも夕日が眩しかった……(え、ぇ??)
昨日、太助が連れてってくれた森へ行こうとして俺は川沿いの道をテッテケテッテケ歩いてた。
後ろから太助の声がした。
「おーい、マコト。どこ行くんだよ、行過ぎ行過ぎ」
太助は今日は普通のシャツとズボンを着ていた。
昨日はやっぱり祭か何かだったのか。
そして、俺たちの秘密基地造りが始まった。
太助が木を選び、小屋を乗せる枝を選んだ。
二人で森の中をかけずり回り、足場や床になる枝を探した。
太助の目は確かで、いくら頑丈そうに見えても、こいつがダメを出した枝はあっけないくらい脆かった。
枝と枝を結び会わせる綱も、自分たちで葛を探して作り出した。
途中、くうぅぅーぅっ…と情けない音で腹が鳴った。
そろそろ昼時だろう。
「腹減ったからいっぺん帰る。昼からまたやろうぜ」
俺たちは昨日のように連れ立って森から道へ出た。
お日様は間違いなく頭の上にある。
ご飯が済んで一休みした俺は、祖母ちゃんに訳を言って茹でたトウモロコシを持たせてもらい、太助の待ってる森を目指して一心不乱に歩いて行った。
すると、横の方から太助の声がする。
「マコト、どこ行く気だよ。こっちこっち」
何だか不思議な気がした。俺は断じて方向音痴ではない。
だのに、何でこんなに迷うんだ?
それはともかく、俺たちはまた秘密基地造りに取り掛かった。
最初の想定より高い位置の枝を選んだから、梯子からして作らねばならない。
それでも、太助と作業すると面白いように事が運ぶ。
太助もそう思ってくれているらしく、俺たちは作業の合間に何となく顔を見合わせ、笑いあった。
最初に二人並んで腰掛けられるスペースが出来た時は、最高にいい気分だった。
俺たちはそこで物も言わずにトウモロコシを食った。
一番旨いトウモロコシだった。
やがて日暮が近づき、またあの口笛の様な音が聞えた。
太助も口元を手で覆って口笛を吹いた。
昨日と同じく、森から出た道の所に、短い着物姿の太助の母が立っていた。
今日の夕日も眩しく、俺は二人を最後まで見送れずに自分の家の方を振り返った。
すると、やっぱりこっちにも夕日があって凄く眩しい。
太助の帰る方には何か夕日を跳ね返すような、でっかい看板でも立ってるんだろうか?
昨日だけではなく、太助の森へ行くのに俺はいつも行過ぎたり方向違いをやらかし、太助の案内なしに森へ行けた事は一度もなかった。
それでも太助との秘密基地造りは楽しかった。
基地は思いの外大きくなり、広さは三畳間程、高さは俺たちが楽々立って歩ける程になった。
最後に葉っぱ付の枝で屋根を葺くだけになった日、昼ご飯を食べに帰った俺は、今夜母と弟が来る事を知らされた。
森の中に戻ってから、俺は今夜母が迎えに来て明日帰ってしまう事を太助に伝えた。
太助の表情が見る見る曇っていくのがわかる。
俺だってつらい。でも、どうしようもない。
俺はわざと明るく言った。
「さあ、屋根やっちまおうぜ。俺らの最高の秘密基地だろ?」
俺たちはどちらから言出すともなく、それまで別々に探しに行ってた葉っぱ付の枝を二人で探し、ひとつづつ屋根に据え、しっかりと固定した。
「よぉっしゃあ!!」
俺たちの本当に最後の共同作業だった。
日が傾くまでの間、俺たちは秘密基地の中で黙って風に吹かれ、木の葉のざわめきを聞いていた。
もうまもなく太助の母の口笛が聞えるだろう。
「マコト、螢見たか?」と、唐突に太助が言った。
「いや」と俺は答えた。
他所で見た事はあるが、この村で螢を見た事はなかった。
「じゃあさ、今夜おれと見に行こうぜ。いいとこ知ってるんだ」
「ほんとか?行こう行こう!」
やがて太助を呼ぶ口笛と、答える口笛が響き合い、俺たちは意気揚々と森を後にした。
「かあちゃん、おれ、今夜マコトと螢見に行く」
太助の母親が少し戸惑ったような表情を浮かべ、俺に尋ねた。
「夜、出て来て大丈夫なの?」
たぶん大丈夫、と俺は答えた。
止められても、抜け出して来ようと決めていたからだ。
そんな俺の気持を察したかのように、太助の母親は「無理はダメよ」とやんわり釘を刺した。
今日は太助の方の大陽を見もせず、俺はまっしぐらに家へ駆け戻った。
ご飯の後、祖父ちゃんに
「螢見に行っていい?」と聞くと、祖父ちゃんは怪訝な顔をした。
俺は祖父ちゃんに今までの_
- 太助と出会った事
- 秘密基地を作った事
- 夕方になると太助の母親が口笛で呼びに来る事
- 太助がそれに口笛で応える事
- いつも二人の向こうに夕日が映っている事
を全部話し、明日俺が帰ってしまうので太助が今夜螢見物に誘ってくれた事を話した。
祖父ちゃんは黙って俺の話を聞いていたが、
一言「わかった」と肯き、
自分で台所に立って、俺の大好物のクルミの飴煮を大量に作ってくれた。
「おまえの分はまた作ってやるから、これは太助の母さんに渡せ。それから、わかってると思うが、くれぐれも本当の名を明かしてはならんぞ。いいな?」
俺はちょっとドキッとした。
本当は、太助にマコトと呼ばれるのがつらくなってきてたから。
手足に虫除けの薬を塗り、祖母ちゃんに包んでもらったクルミの飴煮を持って、太助の森を目指した。
肝心の待ち合せ場所を決めていなかったので、とにかくそっちを目指せば太助が俺を見つけてくれるだろうと、単純に俺は考えていた。
「マコトー、こっちだー」
土手の上で太助が手を振ってくれる。
当りだ。太助はかなり夜目が利くらしい。
足元をほとんど気にせず、すたすたすたすた歩いて行く。
俺は後を付いて行くのがやっとだった。
辺りの景色がだいぶん里山っぽくなって来た辺りで、太助はようやく足を止めた。
目の前を、小さな蛍光色の黄色の点が横切る。
すると、それが合図だったかのように、周りの暗がりの中にも小さな灯りが点滅し始めた。
無数の天上の星明りの下、川のせせらぎと葉のさやぎ、その中で明滅する幾千の命の灯。
俺と太助は何時知らず互いの手をつなぎ、一言も発せず、ただただその景色に見とれていた。
どれくらい立ったろうか、太助の母の口笛が俺たちを現の世界に引戻した。
「もうだいぶ遅いから、お家の人が心配するわ。帰りましょう」
俺たちは手をつないだまま太助の母の後に従った。
行きはあんなに長いように感じた道も、帰りはあっけなく終ってしまう。
太助の母親は俺からクルミの飴煮の包みを受取って礼を述べ、俺たちは別れの挨拶を口にした。
本当にもうこれっきりだ。
いつもなら、向こうが先に背を向けるのに、今夜は向こうが俺を見送っている。
俺は振り返り、太助に向って叫んだ。
「太助ー、おまえにあれ任せるからなー、俺がまた来るまで守っててくれなー!」
太助は返事の代りにあの口笛を吹いて寄越した。
この次あれが聞けるのはいつの事か。
ちょっと感傷に浸りながら二、三歩踏み出した時、後ろの方が何だか明るいような気がした。
もう一度振り返ると、太助と母親が朱色の山のような大きな炎の中へ入っていく所だった。
二人の呼び合うような口笛が消えると、炎もすうっと消えてしまった。
家では祖父ちゃんが起きて俺の帰りを待っていてくれた。
俺が、口笛を吹き合いながら大きな炎の中へ姿を消した二人の事を祖父ちゃんに話すと、祖父ちゃんは大きく頷いてこう言った。
「やっぱりな。おそらくおまえに“さかい”の太助と名乗った方は、後を弔う者のない子供の亡者だったろうな。
“さかい”というのはあの世とこの世の端境の事、太助というのは助けを待っている、そう言う意味じゃろう。母親と見えたのは“おくりぼっこ”に違いない」
「おくりぼっこ?」
「子供の亡者があの世へ行くまで笛を吹いて遊んでやる妖怪じゃ。ワシは見た事がないが、口笛で子供に合図しとったんなら、たぶんそう思うて間違いない。
姿形はワシが聞いておるのとおまえの見たもんは全然違うが、おまえが太助の目を通じて見たのならそれも合点がいく。
そやつが子供の亡者を遊ばせておる時に、たまたま、弟が居らんで寂しゅうて河原の石で遊んどったおまえを子供の亡者が見付け、つい寄って来てしもた。
普通なら体の具合でも悪くなる所じゃろうが、おまえは妙に強い所があるからの。今日もどうしようか迷うたが、おまえならちゃんと送ってやれるかも知れん。そう思うたから飴玉代りにクルミを持たせたんじゃ」
「……太助は成仏しちゃったのかな?」
「きっとしたな」
「ふーん……」
俺の秘密基地は、太助の森と一緒に遠くへ行ってしまった。
もう一回作りたくても作れない。
今となっては遠い日の事だ。
(了)